第16話 末吉の成長を知ってるか

 暑さ只中の気和飛坂だが、富谷には爽やかな風が吹き抜けていく。

 薄暗い土間の上がり框に、背中を丸めた勝次。

 奥から覗いた富子がにやりと声をかけた。

「これ、勝次。何をさぼっておるのじゃ」

 富子は、自分に惚れている男を暑さ凌ぎにからかう。

 ぼんやりしていた勝次が慌てて頭を下げる。剣術の稽古でかいた汗を洗い流して引き上げてきたところだ。

「いぇ、いぇ、お富さま。さぼってなどおりません」

「うぉホホホホホォ、冗談じゃ。具合が悪いわけではないのじゃな」

「いやいやいや、大丈夫でございます。ただ……」

 いい淀む勝次に、富子は悪戯化な笑みを返した。

「いや、その、あの崖崩れの時、波丸に『勝次手伝え』と怒鳴られまして」

「うぉホ、まあ、いいではないか。とっさの言葉ではないか」

「へい、拙者もそれは分かっているんでございます。ただ、その時、拙者は、『へぇ』と素直に答えておりまして、今思うと、ちょっと癪に障るというか……」

「うぉホホホホホォ、ホホホホホォ」

 裏庭から木刀を打ち付ける音が聞こえてくる。男衆が剣術の稽古をしているのだ。末吉も波丸も一緒だ。

 近頃、鎌倉への人の流れが多く、先月も利息金を持ち帰る勝次の配下が朝比奈切通し近くで襲われた。有り金残らず盗まれた死体は衣服もはぎ取られ路傍の草むらに転がっていた。富子は、眉を吊り上げ、出入りする小役人に「犯人を捕まえろ」と喚いた。

 それから、各自に任せていた剣術の稽古を裏庭で始めたのだ。崩落事故で弱った三人も元気を取り戻し稽古に励んでいる。

 勝次は、以前から波丸の腕前を試したいと思っていた。凸凹デコボコ入り混じっての稽古はいい機会である。

「爺さん、波丸の腕前をどう思うね。おれは、そこそこ出来ると思うんだがね」

「勝次がそう思うなら、そうだろうよ。わしは、筆は立つが、腕の方はたしなむ程度だ」

 爺さんは、にやりと笑い勝次の質問をはぐらかした。

 波丸は熱心に稽古をするし、末吉など年若い者には、指導もするが「われは、基本だけでござる」といって勝次を立てる。それも小賢しく勝次にすれば面白くない。

 富子は、木刀の音と元気な掛け声を心地よく聞いている。ひときわ、甲高く騒いでいるのは末吉だ。

 事故にあった事など忘れたように、飛び回っている。しかし、末吉は知っている。波丸が泣きながら自分を助け出したことを。

 末吉の下っ腹に、何かがズシンと居座った。本人は何だか分からないのだが、見た目力強い両脚に、本物の根性が宿ったのかもしれない。


 木刀の音が収まると

「ひゃっこい、ひゃっこい」

 またも元気な末吉の声が弾けた。

 今日、予定に入っていた宴席が取り消しとなったのだが、富士山より取り寄せた高額の「氷」の行方がなく、保存もきかないので裏の者たちに、一口ずつ分け与えたのだ。

 富士の氷は、毎夏、ご機嫌伺いに将軍家に届けられていたが、民の負担が重いことから十年以上も前に禁止となった。商売で富士山氷を手に入れるのは、問題ないが、えらく高値な贅沢品だ。

 富子は、自分一人で口に入れるより、皆に分け与えて喜ばせるのが好きなのだ。皆の喜ぶ声を聞きに裏へ来たわけではないだろうが、何をするわけでもない富子だった。

「半大夫、予約が取りやめになったとはいえ、氷代は確り請求するのじゃ」

 と富子は渋い顔をしたのだが、半大夫に落ち度のあるはずもなく、

「もちろんでございます。あの富士氷は、それはそれは高かったのでございますから、しかと請求させていただきます」

 富子は、半大夫の返事に満足げにうなずき、姿を消した。

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