第8話 波丸が生まれた

 今小路をブラブラし、由比の浜まで足を延ばした。男が流れついた嵐からすでに三月以上も経ち、年も暮れようとしていた。肌寒い海風がむしろ心地よい晴天だ。由比浦にたゆたう船の数も多く、殷賑を極める材木座の浜近くにも船が停泊している。二人は、浜を右手に見て和歌江島の方角へ向かった。

 和歌江島は、この時をさかのぼること三十年ほど前の貞永元年(一二三二)夏、時の執権北条泰時やすときの援助をうけた勧進聖によって成し遂げられた日本最古の築港だ。

 一艘の船が材木座の浜に引き上げられている。男は船の腹に大書された船名を見上げ足を止めた。

「ねぇ、ねぇ、水練は出来るか? おらは出来ねえから、船に乗るのはちょっと怖いんだ」

 末吉は、連発していた質問を止めて、男の顔を見上げた。

 男の視線を追って船を見上げた末吉は、大声ではしゃぐ。

「ねぇ、ねぇ、あれ何って読むの? 一番最初の真名は分かるよ。ミナミだよね」

 船腹には大きく「南海丸」とあった。

「おう、末吉どのは、南が読めるか。次はウミ。そしてマルだ。ナンカイマルと読むのだ」

「南海丸かぁ、南の海から来たんだな」

「そうかもしれぬな」

「南って何処だ? 伊豆か、えっーもっと南って何処だ」

「末吉どのは、鎮西(九州)を知らぬか。日本の一番南の大きな島だ」

「ふーん、おら知らねえ。腰越こしごえより先へは行ったことがねえ」

「腰越?」

「ほら、あの出っ張っている岬の向こうだ」

 末吉は、小動こゆるぎの岬を指さして小鼻を動かす。その岬の先には、みやびな裾を引く富士の山が夕日を浴びて薄っすら頬を染めている。

「末吉どの、われの名は南海王丸なみおうまるだと思う。まあ、幼名だがな」

「えっ、ナミオウマルが名前なの。思い出したの?」

 静かにほほ笑んだ男は、また船名を見上げている。

「きっと、海を見たらもっと思い出すよ。また、ここへ来よう。なぁ、ナミマル」

 かくして、男は末吉によりナミマルと名付けられた。

 末吉と波丸なみまるは、何か満たされた思いに言葉少なく、小町大路を富谷へ急いだ。

 二人が歩む先、八幡宮の上空を両手に余るトンビが高く低くゆったりと旋回している。

 この日、十一月二十二日元第五代執権北条時頼ときよりが逝去した。

 鎌倉は、鳴りを潜めている。

 病弱であったからか、七年も前の三十歳に出家し、執権を退いていたのだが、鎌倉を平穏に保つためか、その権力は隠然と生きていた。故に、その死は貴賤を問わず多くの人々を悲しませた。

 北条執権は、源氏三代が滅した後、いよいよその力を増し鎌倉の繁栄を担った。時頼は、御成敗式目で名高い北条泰時の孫にあたる。

 時頼は、執権を退いた後、諸国を遊行したという伝説がある。観阿弥・世阿弥や後の近松門左衛門など名脚本家によって能や人形浄瑠璃・義太夫・歌舞伎などにも書き上げられた「鉢ノ木」は有名だが、数々の逸話が今に残る名執権だ。その子時宗ときむねは、この時十三歳。五年後の十八歳で八代執権となり、蒙古襲来に立ち向かう。

 その頃、大陸では、フビライが中国南部雲南を目指していた。あまたの競争相手を凌ぎ、頂点へ昇って行く途中にあった。


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