第7話 穴あき銭って何だよ

 末吉が、若い男の首から引き抜いた紐の先には、古びた穴あき銭がぶら下がっていた。その銭の四角い穴の上部には「富」が、下部には「本」という字が薄っすらと確認できた。

 これは、鎌倉時代に流通した宋銭ではない。

 現代の一九八六年、奈良の平城京跡で発見されたこの富本銭ふほんせんは、驚きの目をもって迎えられた。

 それは、日本最古の貨幣といわれる和同開珎より古い貨幣であろうとされたからだ。また、これは実際に流通した貨幣だったのか、それ以外の目的で作られた貨幣であったのか。厭勝銭ようしょうせんと呼ばれるこの銭は、古くからアジアに存在した。この貨幣を持つと幸福を招くというの意味合いがあった。

 由比の浜に流れ着いた若い男は、なぜ、この古銭を身に着けていたのか。そんなことは考えもしない末吉だったが、この古銭をお守りとして認識し、大切に扱った。

 男は、若いだけに回復も早く、屋敷の裏手に忍び足で出て、一歩一歩確かな足取りとなってゆく。食も進み、顔色も良くなると面差しの良さが際立ってくる。権勢誇る鎌倉といえども、その辺を歩いている男ぶりではない。しかし、男は自分の名前も出自も覚えていないという。


 ぐるりとかすみがかかったような視界だ。その縦長の円形の中に、時々、人々の姿が浮かび上がる。最も近くに姿を現す少年もその喋る言葉と同じように、半分ほどしか確認できない。他の者は、あまり近寄らず、少し離れてぼそぼそ話すので、なお理解できない。

 まるで、半分しか覚醒していないような、半分しか生き返っていないような気分だ。

 呼気と吸気を整えれば、雑多な草木が気ままに生い茂る近辺から、さやさやと秋の声が聞こえてくる。なんと優しい景色だろう。今の己も分からないのに、幼い頃を思い出すすべもないが、もっと荒々しい深山の中で育ったような気がする。霞の中で、両手両足の指先に力を入れ、己の身体を確かめてみる。


 すっかり秋も深まり、裏屋では冬の準備を始めている。

 穏やかな陽射しが心地よいが、風が吹けばひやりとする。伊豆石の端くれを縦に横に据え、小さな池も頑張って拵えた中庭を望む縁先で、勝次が声を潜める。

「お富さま、あの男ですが…… おかしかありませんか」

「何がおかしいのじゃ」

「何にも覚えてないなんて、そんなことがあるんですかい」

 勝次は、若い男の騒動の外にいる。関係ねえやと思うものの、疎外感は否めない。

「さあねぇ、陰陽師の殿さんに問うてみたが、そんな病もあるとかないとか」

「へぇ??」

「良いのじゃ。勝次は、上手にあの男を使いまわせば」

「そりゃ、そうですが、どうやら侍のようですし、末吉の野郎なんぞ、すっかり懐いちまって」

「男に、真名を習っているとか」

「へぇ、よくご存じで。爺さんの話では、立派な文字を書くそうで……」

 今まで、爺さんを除けば、勝次だけが武家の出ということになっていたが、これからは、死に損ないのあの男に自分の位置を奪われかねないと取り越し苦労してしまう己に腹が立つ。

 若い男が何も覚えていないのは、本当か嘘か、嘘なら何故か。富谷で働くほとんどは、そんなことも考えず、その回復を喜んだ。酒席に侍る女子たちも好奇の目で男を見つめた。首を絞められたは、みなを出し抜いたことを秘し、誰にも問題の夜の話はしなかった。

 末吉は、男の命の恩人として大っぴらに面倒を見つつ、あれやこれやを尋ねていた。男は色白面高の瓜実顔で、控えめな一皮目から微妙な色味の瞳がのぞく。散歩の途中で、青葉が映えた濃緑の眼に気付いてもすっかり男に惚れ込んでいる末吉は、きれいだなと思うばかりだ。パンと張った足太の下半身に重心がある末吉だが、その顔は小さな瓦の中心に可愛化のある目鼻が集まっている。凸凹デコボコの二人が、足慣らしに連れ立って歩くと近所の女どもまでが、可笑し化に振り向き、小さな噂を呼んだ。

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