第4話 遊女の情は海より深く

 下人の末吉が大嵐の戦利品として持ち帰った若い男は、富谷の裏で格別の蘇生を施され、息を吹き返した。格別の蘇生とは多くの女たちの素肌で温められたことだ。

 富士山の氷のような塊が、小枝さえの胸元で溶けだした。有るか無きかの鼻息が、小枝の貧しい乳房をくすぐった。男の首筋に回した腕に思わず力が入った。苦しくなったのか、頭をわずかに振った男を愛しい思いで抱き締めた。海で死んだ弟を思い出したのか、単に若い男が愛おしかったのか、小枝にも分からないが、ゆるゆると覚醒しよとした男を乱暴に目覚めさせてしまった。

 富谷の仕事はつまらない。十六歳で、ここに売られ最初にお客に茶を運んだ時は、カタカタと音を立ててしまったが、今では早く帰ってくれと思うばかりだ。夕べに戻って来るなどといわれれば、殺してやろうかと呪う。富谷を抜け出し逃げようと何度も考えたが、ここを出て果たして一人で生きていけるのか、もっと惨めな生活しか思い浮かばない。

 流れ着いた男が、つまらないだけの毎日に、いろどりを与え、潮の匂いをわずかに秘めた若い体臭に図らずもむせる。


 男が、小枝の胸元で目覚めたことが、朋輩の嫉妬をかった。あたし等だって、冷たい思いをした。食べたこともない富士山の氷だ。それはともかく、男はもう生死の心配がなくなった。

 そうと分かっていても、女たちは男の寝屋を覗き、隙あらばその肌を温めようと、ふざけてみたり笑ってみたりと珍しい娯楽の道具にした。

 女主の富子は、若い頃の美形を忍ばせながらも富の蓄積を隠せない丸みを帯びた顔を強張らせる。

「そんなに男の肌が恋しくば、もっと夜の仕事に精出せ」と喚いたが、女たちにとって客の男ではない、曰くありげな若い男を蘇生させる作業は、遊女仕事とは別物で、なぜだか心躍るのであった。

 富谷は一軒の家屋ではない。武家の屋敷を改造したものだ。門前に向かった母屋の裏には厩や納屋を備え、その屋敷の隣とおぼしき垣根の向こうにも裏屋と呼ばれる別屋敷があった。

 裏で働く爺さんが、剣呑な気配に目覚めた。荷物になるのか、いずれ役に立つのか知れない男の寝間から伝わる呻きの波動だ。慌てて起き出した爺さんが、遣戸を開けると男の背が殺気を放っている。男の十指は、組み伏せた女子の首を絞めていた。爺さんは慌てて男の指を引きはがす。

「ひ、ひぃ、人殺しぃ」

 女のおめき声に爺さんの叱声が飛ぶ。

「お前は、なぜここにいる? こ奴を殺そうと忍んできたのか」

「ば、馬鹿な、あたしはこいつを慰めようと……」

「こ奴は、お前に襲われたと思って、首を絞めたのだ」

「そんな… あたしは…」

「去ね、おんな」

 爺さんの叱責に、女は、裾を乱して部屋を出ていく。

 女の名は、。遊女働きで稼ぎ頭の女子だ。小枝の胸元で目覚めた男に教えたかった。あたしの胸元の方が気持ち良いよと。

 爺さんは、呆然とする男の背中をバンバンと叩き、無言のまま口角を上げて笑って見せると部屋を出た。

(こ奴は、何者。富谷に仇なす者ではないか)爺さんの懸念は尽きない。


 女と爺さんが、喚き合っていた。

 ここは、何処だ?

 われは?

 あ奴らは、何を話している?

 意味が分からぬ?

 いや、言葉が理解できぬのか?

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