第3話 料理屋富谷は銭下馬だ

 女たちは、忙しなく表と裏をいき来している。耳元の後れ毛をあだっぽくかき上げながら落ち着かない素振りだ。

 ここは、「富谷とみや」と称する料理屋。鎌倉幕府が定めた商業施設設置七か所の一つ気和飛坂(化粧坂)の裾にへばり付き、うちも気和飛坂でございますと言外に名乗っている。

 鎌倉幕府は、念願の後嵯峨上皇の第一皇子宗尊むねたか親王を宮将軍として鎌倉に迎えるに先立ち、建長三年(一二五三)頃から町の整備を行っていた。

 牛馬の肉や骨が散らばり、時に死体も捨てられていた道の清掃整備に力を入れた。牛がのんびり鳴く街路に出された小屋がけの店や立売りなどを見とがめ、指定以外の場所での商売を禁止した。

 商売を認めたのは、大町・小町・米町・亀谷辻・和歌江・大倉辻・気和飛坂山上の七か所であった。

 気和飛坂は、まぎれもない遊女屋の商売場所で、辺りを憚ることなく脂粉の匂いを振りまき、琴や鼓を奏でている。

 さて、うちは料理屋でございます。遊女などつゆ知りませぬという顔で、「富谷」は料理を提供している。ここを切り盛りするのは、女主の富子とみこ。京から下ってきた白拍子上がりだが、元は公家のお姫さんということになっている。

 万事が京風。高額の京風料理は、武骨な関東武者の口に合うのであろうか、身形のよい侍などが多く出入りしている。実は、富谷は料理を食べる処ではない。

 この鎌倉で、あれやこれやの風聞を仕入れる場所として密かに知られていた。鎌倉の噂なら、富谷に聞けとの噂ありだ。メディアのない中世の噂は、現代の噂話とは大いに異なる。噂は重大な情報を含み、無くてはならない性質を持っていた。幕府の意向は、鶴岡八幡宮の鳥居前の高札で知らしめられた。

 鶴岡八幡宮は、頼朝よりとも頼家よりいえ実朝さねともの三代源家が絶えた後も鎌倉武士団の宗社である。元を正せば源氏の氏神であり、源頼朝の祖父と父が鎌倉由比郷に勧請した元八幡を頼朝が平家追討の旗揚げに際し、その勝利を祈願して現在の社地に遷した。

 八幡宮前の高札は、富谷にとっても重要な情報収集の場であった。すべての高札の写しを保管した。三月前の風聞が、本当の話か尾ひれの付いた噂話か、その結果がどうであったかも富谷に聞けば知れたのだ。鎌倉の噂は、富谷に集まり利益を残して各地へ散った。

 料理の代金は、料理そのものの金額ではない。値段の付けられない風聞代と思えば、決して高いものではない。もちろん魚心あれば水心。日頃から富谷で金を使い、いち早く噂を耳に入れることも大切なことだった。幕府のお触れなども逐一耳に入れる筋道を持っているのは関係各所の役人や一部の商人だけ。素早い風聞が欲しい者どもは、お家のため、自分のために富谷から料理という名の情報を買った。

 酒の席には十分な飯を与えられ、ふっくらおっとり着飾った京から来たという粒揃いの女たちが侍った。表向き宴席の接待役の女たちは、金次第では遊女家業もこなした。女たちの一夜の仕事賃は、それぞれで定かではないが間違いなく高額で、そこらの男は相手にしない。下賤な男どもを相手にする遊女屋とは、明らかに一線を画している。女たちは、上総かずさ武蔵むさし訛りの怪しげな京言葉を使ったが、そんなことはご愛敬、確かな情報が富谷の売りであった。

 また、富谷には更なる裏の家業があった。金貸し業だ。

 銭は、ここ富谷と云う駅で馬を降り、益と云う名のふんを残した。

ゼニ下馬ゲバ富谷」と人は囁いた。それを担うのは勝次かつじら得体のしれない者たちだった。

 表の富谷を仕切るのは富子に付いて京から下った初老の半大夫はんだゆうであり、台所を仕切るのは半大夫の倅の四郎大夫しろうだゆうであった。富子との関係は誰も知らない。親子姉弟とも主従の関係とも噂されたが富谷の風聞帖に記載はない。

 今、その富谷の店裏は、一人の若い男を隠し艶めいている。

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