願い。

伊島糸雨

願い。


 昔から、妙なものを口に入れては吐き出す癖があった。

 最初に口に運んだ異物はダンゴムシだったと思う。幼稚園の木陰を這っていた足のたくさんあるそれが、指で弾いたり蹴飛ばしたりすると丸くなるのは知っていた。先生も他の子も見ていない時に、ふとこれはどんな味がするんだろうと思って、指でつまみあげるとボール状になったそれを口に入れた。噛まずにそのまま転がしていたら、ボールから元の状態に戻って舌の上をうぞうぞと這い出したので思い切り吐き出した。味はわからなかったけれど、それが不快であると同時に奇妙な感覚を生起するのを、私は知った。

 一番思い出深いのは、小学校中学年の頃にさほど仲良くもない同級生のかさぶたを食べたことだ。お昼休み、膝に貼られていた絆創膏が剥がれかかっているのを鬱陶しそうに外したところに、これもまた剥がれかけのかさぶたがあった。気になって何度も触ったのだろう。その子は顔を歪めながらぺりぺりとそれを剥がすと、机の上に置いて手を洗いにか席を立った。教室にはほとんど人がいなかった。私はこっそりそれを盗んでポケットにしまうと、トイレの個室に駆け込んで鍵を閉めた。そしてそこでかさぶたを口に運び、ざらざらとした感触と、人から発せられる苦味と生臭さを……うっかり、飲み込んでしまった。

 便器に向けて嘔吐した。自分の身体の奥底から湧き上がる水気が食道を焼いて口腔を撫ぜてぶちまけられる。お昼ご飯の中身はほとんどどこかに行ってしまって、私は汚い色をした水をぼんやりと眺めていた。

 そうやって私がよく知りもしない人の細胞を食べている間に、両親は離婚を決意したようだった。

 元々折り合いは悪かった。父はほとんど家に帰らず、母は父のいない時にそのことをよく詰っていた。どうやら父はよそに女がいたらしいと知ったのは、母に引き取られた翌年のことだ。特段傷つくことはなかった。母が荒れてそんなことを口走った時、私は唇の皮を口の中で転がしていた。ぶよぶよとして、変な感じがした。

 父親のことはよく知らない。家にいなかったしあまり話すこともなかった。離婚してから会ったこともない。ただ、母の言うことを聞く限りでは、よっぽどロクでもなかったんだなと思う。ロクでもない人間が言うと説得力がある。そして娘がこの私なんだから、信憑性は増すというものだ。

 母があまり食事を用意してくれなくなったので、パンとかを適当に食べるようになった。給食が一番まともな食事だった気がする。

 中学生の間は美術部に所属していたけれど、結局絵を好きだと思うことはなかった。成長しても私の悪癖は治る気配を見せなかった。家で何かのプラスチック片を噛んでいるのが母にバレて罵倒とともにぶたれてからは、多少人目を気にするようになったけれど。未だにやめられずにいる。

 高校には行かせてもらえた。顔も朧げな父親が口座に振り込む養育費のおかげだった。他にやることがなかったのもあって、勉強はそこそこ頑張っていたからそれなりのところに行けた。そこでもまぁ同じように漫然と勉強して、そこそこを維持していた。

 時々話す相手はいたけれど、学校以外でかかわる人はいなかった。学校が終わると図書館に行って、勉強したり本を読んだり、音楽を聴いたり映画を見たりして時間を潰した。日が暮れてきたあたりで家に帰り、適当に夕飯を食べて部屋にこもった。母とは仕事から帰ってきてからも会話をすることはなかった。生産的なやりとりができた試しなんてなかったからだ。

 大学に行くかどうかという段になって母が急に謝り出したのを気持ち悪いと思いながら、私は進学することを選んだ。離れたところにある国立大の文学部だった。将来への展望みたいなものはなかった。学力的に行けそうな国公立の学部で、1人暮らしができそうなギリギリの範囲にあるのがそこだっただけ。自分のこれから先なんて想像できる気もしなかったし、想像したいとも思わなかった。

 私は晴れて私だけで構成される日々を得た。煩わしさが減ったのが嬉しかったのだろうか。相変わらずそこそこを維持しながら、酒や煙草といったものに触れるのを状態化させていくのにそう時間はかからなかった。

 異物を口に入れようなんていう衝動は、治りはしなかったものの頻度は下がった。アルコールとニコチンがそうさせたのか、ただ口寂しかっただけなのかはよくわからない。それでもたまに、勢いで煙草を齧って吐いていたから、もう吐くのが癖になっているのかも不明になっていた。

 日々の送り方が固定化すると、似たような生活パターンの人間と関わる機会が増えてくる。何人かの男と付き合うこともあったけれど、どれもこれもパッとしないですぐに飽きて別れた。欲しいものと違うと毎回思うのだった。


 そんな中で出会ったのが、先輩だった。


 夜歩き仲間の女友達が、酒の席に連れてきたのが先輩だった。大学のOGがやってるとかいう小さなバーで、紫煙に霞む視界の中で酒を飲みつつダラダラと喋った。先輩は私の2つ上で、私と同じくらいに不摂生な色をしていた。話しているぶんには魅力的だったと思うけど、それがどうして同棲の話になったのか、想像はついても実際のところはもうよくわからない。

 先輩は、とても社会に適合できる人間だとは思えなかった。異性だけでなく同性との関係もだらしなく、雑で、人の思いを平気で無視する人だった。だから、私に目をつけたのは、中継地点あるいは避難場所としての役割がほとんどだったように思う。

 どうしてそんなロクでもない女に惹かれてしまったのかと思う。もしかしたら、この血に混じるなにがしかが私にそうさせるのかもしれなかった。父も母も、方向性は違えども私にとってロクでもないのに違いはない。そして彼らが互いのそういう部分に一瞬でも惹かれてその間違いが私なのだとしたら、私が同じでないとどうやって証明できるというのだろう。

 でも、私はそれで構わないと思っていた。卒論で異物食について何かかけないかと探した挙句に食人文化について書いた後も、就職するのに何をアピールすればいいのかわからず途方に暮れて、バイトをしながら過ごす日々の中でも、私はそれで構わないと思っていた。ほとんど伝聞でしか知らないロクデナシの父と私に豊かさを与えられなかった母にどこか似ている先輩の影を目で追いながら、これがかつて関係を持った男たちになく私が欲していたものなのだと心のどこかで納得していた。

 先輩はふらっと家にやってきてはふらっと出ていくのを繰り返した。時折身体を重ねることもあったけれど、いくら回数のカウントが増えたところで素っ気なさは変わらない。気がつけばずいぶんと長い付き合いになっていて、私はもう何かを変えようという気も起きなかった。


 起きないと思っていた。


 いつものように先輩はやってきた、靴を脱いで何も言わずに上がり、私のベッドで眠った。起きると煙草を吸いながらわずかに充血した目をこすり、何か食べるものはないか、と言った。日はすっかり暮れて、普段であれば夕食どきだった。私は簡単に食事を作って出し、先輩はテレビを見ながらそれを食べた。そして一息つくと、ありがとう、もう行くよ、とだけ言って玄関に向かった。


 その時、ふと思ったのだ。

 こういうことを繰り返して、いつか先輩もいなくなってしまうんじゃないかと。

 父がかつて私を選ばなかったように、母がかつて私を見なかったように。

 先輩も消えていくんだ、と。


 拭いている途中だったフライパンの柄を握って、私は先輩の後を追った。

 そして、靴を履く先輩の頭を、思い切り殴りつけた。

 先輩の頭が凹む鈍い音と、金属が鳴る甲高い音が響いた。

 先輩は前のめりに倒れて、地面に頭をぶつけた。

 先輩は動かなかった。


 私はフライパンを放り投げてトイレに走り込み、すっかり見慣れた楕円形の穴へと、勢いよく吐き出した。饐えた匂い。私の匂い。たれる唾液を拭ってすべてを水に流す。それから先輩の元へ戻ると、その両脚を掴んで、リビングへと引きずって行った。廊下にはべったりと血の線が引かれていた。

 窓を開けると涼やかな夜風が吹いてカーテンを揺らした。先輩の首筋に触れると脈は消えていた。壁に背をつけて座りこみ、胃液の生温さが混じる息を深く吐いた。私はしばらくの間、そうやって蠢きを失った先輩の身体を眺めていた。かすかに香る血の匂いは、風に紛れて消えるだろうか。わからない。でも先輩を殺した。これでもう、出て行くこともない。

 その死体は、先輩が持っていたあの魅力をまだ漂わせていた。より濃度を増した頽廃の色を纏って、眼前に転がっている。うっすらと骨の浮いた指。くすんだ右手の人差し指と中指の爪。髪を巻き込んで赤黒く染まった後頭部。弛緩した肉。父と母に似て、そして私が愛した先輩の肉。

 それらを視界に収めながら、ぼんやりと、まだ白い靄の残る室内で、私は空想する。

 吐き出した分の空白が、降って湧いた欲に反応して、切なげに鳴いた。


 台所に向かい、ついこの間研いだばかりの出刃包丁を手に取った。

 どうせ殺してしまったのだと思う。どうせもう死んだのだと、考える。

 それが好奇なのか、幼い頃からの異物への執着なのか、生理的欲求なのか、もっとぐずぐずに混ざり合った因果がもたらした形容できない感情なのか、私にはもう、判断のしようもなかった。

 ただ、どれをとっても行き着く先は同じで、目的は共通して、もはや迷うこともない。

 方法なんていうのは、私がイチから考える必要はどこにもなかった。すべては先人に学べばいい。私は知っている。どうすればいいのか、何が最適か。

 もうきっと吐くこともない。

 先輩を求めるこの欲動に、私のすべてを溶かしつくして、

 初めて、自分の欲しいという思いの奴隷になって、何もかもを余すところなく取り込んで、

 その先でようやく、これまでのことを清算できる気がする。

「さようなら、先輩」

 そしてお父さんとお母さんへ。

 求めさせないで。近寄らないで、遠くにいて。

 手に入らないものに手を伸ばすのは、もううんざりなの。

 だから、さようなら。

 もう2度と、私に欲しいと思わせないで。

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願い。 伊島糸雨 @shiu_itoh

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