武蔵野・イン・ドアー
てこ/ひかり
武蔵野・イン・ドアー
家に帰ると、扉の向こうに見慣れない
私は玄関の取っ手を握りしめたまま、呆気にとられ、しばらくその場に立ち尽くした。いつも迎えてくれるはずの靴箱や壁、リビングへと通じる磨りガラスなど……家の中から、馴染みの景色が全て消え去っていた。
代わりにあったのは、森だった。
頭上から月明かりが射し、葉の擦れる音が風と共に流されて行く。正真正銘・本物の原生林が目の前にあった。こんなこと誰に言っても信じてもらえないかもしれないが、部屋の中に、突如森が出現したのだった。
私はぽかんと口を半開きにして、扉の前で立ち尽くしていた。
部屋が森になる心当たりが何もなかった。
別に部屋の中で、観葉植物を育てていたりだとか、そんなことは一切無い。
ウチのマンションはペットすら禁止だった。
五十代も後半になった。一人娘は関西の方に嫁いで行き、数年前に妻の
定年まで後数十年。
最近じゃ腰が痛くて起きるのも億劫だ。いっそこのマンションを売り払って、のどかな田舎にでも移り住もうか……などと思っていた、その矢先だった。
部屋が原生林になっていたのは。
私は扉の前の部屋番号をもう一度確認した。
二度見、三度見までした。
間違いない。ウチの部屋だった。
マンションの管理人の仕業のはずもない。
誰かのいたずらにしては、手が込んでいると言う度合いでもない。もうまるっきり、森なのだ。
部屋の……いや、正確には森の……どこかでフクロウの鳴き声がして、私は驚いて肩を跳ねさせた。警察に連絡しようかとも思ったが、私は
それは、ハンモックだった。
木々の間に、ちょうど人が一人横になれるくらいのハンモックが揺れている。その近くには、焚き火もあった。よく見ると小さな簡易テーブルや椅子、酒瓶まで転がっていた。まるで誰かが、そこでキャンプをしていたかのようだった。
ともあれ、人一人、寝るスペースが用意してある。
私は恐る恐る自分の
それで私は意を決して、森と化した部屋の中で、一晩寝て過ごすことにした。
部屋の中に足を踏み入れると、ツンと鼻をつく草木の匂いが私を取り囲んだ。街のど真ん中に、小さなマンションの一角に、自然豊かな別世界が広がっていた。
着替えもない。
家具も台所も、すっかり森に飲み込まれてしまっていた。一体奥は何処まで広がっているのか気になったが、微かに野生生物の息遣いが聞こえて来て、慌てて首を引っ込めた。焚き火があるから、
次の日。
木漏れ日の温もりと、小鳥の
翌朝も、まだ部屋の中は森のままだった。
一体何故……
誰が……
などと、悠長に考えている余裕もない。
通勤電車に乗り遅れないように、急いで家を出る。鍵を閉める時、もう一度
それが約一週間続いた。
部屋の中が森と繋がってから、私の生活も若干変わって来た。
考えようによっちゃあ、全然悪くない。
週末に、わざわざ遠出してキャンプに出かけるような人々もいるくらいだ。その点私は今、時間もお金もかけることなく、部屋の中で無料で森林浴を楽しめるのだ。
扉を開けると、部屋の中に森が広がる。
アウトドアならぬ、インドア原生林
歯ブラシや着替えなど、必要最低限の生活必需品は新たに買い揃えた。それにテントや、コンロといったアウトドアグッズも。風呂は近所のスーパー銭湯、洗濯はマンションの一階に備え付けられたコインランドリーだ。都会のジャングル、探せば色々サービスはあるものだ。
それから毎日、仕事が終わると近くのスーパーに寄った。
酒や、焚き火で炙る肴を買って、帰宅したら森に囲まれ晩酌をし、一人キャンプ生活を満喫した。森の野生生物たちも、焚き火の近くまでは近寄って来なかった。部屋の中で焚き火をして、火災報知器は鳴らないのかとか、そんなお固いことはまぁこの際言いっこなしだ。
それに焚き火のそばを離れなければ、雨も降らず(遠くの方で本降りになっていても、火の回りだけは不思議と雨粒が降って来ない)、室温(と言っていいものだろうか? 森温?)も適度に保たれることが分かった。慣れてみれば意外に快適だ。
いつの間にか、家に帰るのが楽しみになっている自分さえいた。
そんな生活にも大分馴染んで来て、また数週間が過ぎた。
ある日の昼過ぎだった。
その日は、久々の休日だった。
太陽が中天に登る頃、
飯盒で米を炊き、レトルトカレーを温めて食べる。
メジロやシジュウカラの鳴き声を耳の奥で泳がせながら、
ハンモックに揺られて、うたた寝をする。
たったそれだけのことなのに、部屋の中の景色が変わるだけで、何だか胸躍るような冒険にでも出かけているような、妙に若返ったかのような気分だった。
木漏れ日に目を細め、ぼんやりと
今日は朝から晴天で、入り組んだ森の奥まで、差し込む日差しがキラキラと輝いて風に揺れていた。
一つだけ、気にかかっていることがあった。
それは、この森が何処まで広がっているか……ということだ。
元々四人暮らしが出来る程度には、広さを持った一室だった。
だが、どうも突如出現したこの雑木林は、見渡す限り奥の奥まで広がっている。
この数週間、私は焚き火のそばを離れたことはなかった。
折角の休みだし、少し奥まで散策してみることにした。
あぜ道や獣道を、足を挫かないように気をつけて慎重に掻き分けて行く。
部屋の中にいるのに、ものの数分で汗びっしょりになってしまった。若い頃より格段に体力が落ちていることを痛感する。
数十分歩いた頃だろうか。
相変わらず景色は雄大で、一面緑が覆っていたが、ふと私の目の前に不思議な光景が飛び込んで来た。
それは、トンネルだった。
クヌギやコナラの木が側面から頭上まで生い茂り、木で出来上がった自然のトンネル。
そのトンネルの出口に、太陽とはまた違う淡い光が浮かんでいるのが見えた。
視線が淡い光に吸い込まれて行く。
次の瞬間、私は息を飲んだ。
トンネルの向こうに、人影が動くのが見えたのだ。
私は目を凝らした。徐々に心臓の音が早くなっていく。
そう、さらに不思議なことに……その人影には見覚えがあった。
あの姿は……あのはにかんだような表情は……
「……一沙?」
……死んだ妻にそっくりだった。
私の目は彼女に釘付けになった。
「一沙?」
人影は淡い光の向こうで、静かに首を横に振った。
そしてそのまま、ゆっくりと光の向こうへと姿を消した……。
トンネルの向こう側に行ってみる。
そう決意したのは、それから三日後のことだった。
あの日は、呆気に取られているうちににわか雨に降られ、慌てて焚き火の方へと帰ってしまった。
あのトンネルはなんだったんだろう。
あれは異世界への入り口か、はたまた黄泉の国への通り道なのだろうか。
幽霊や心霊現象の類は、正直信じていない。
だから誰にも相談できなかったし、見間違いでなければ、事実を確認しなければと思い立った。
私は次の休みまでに、本格的な登山グッズやアウトドア用品を買い漁り、およそ一週間は野宿できるような装備を整えた。ヘルメットや懐中電灯、缶詰や水……リュックはたちまちぎゅうぎゅうになった。
やがてその日はやって来た。
いよいよ明日から、本格的なトンネル探索だ。
妙な緊張感に高ぶりながら、その晩は早めに横になった。
もしかしたら、生きて帰れないかもしれない。
そんな思いが頭をよぎった。
それでも、
妻がトンネルの先で待っていてくれるのなら、それで良いかもしれないな……そんな風にすら思った。
珍しく月明かりの暗い夜だった。
遠くの方で囀る夜鳥の声に耳を澄ませていると、いつの間にか眠っていた。
そして朝、目を覚ますと……部屋の中は、すっかり元通りになっていた。
私はベッドの上で目を覚ました。
昨日まで生い茂っていた雑木林など、何処にも見当たらない。
代わりに部屋の中には、脱ぎ捨てられたシャツだとか、埃被ったテレビのリモコンだとか、妙に懐かしいものが転がっていた。扉を開け、外に出ると、いつもの代わり映えしない、武蔵野団地の
それ以来、
部屋はいつ迄経っても殺風景な部屋のままで、再び森になることは二度となかった。
本当に、狸に化かされたか、狐に摘まれたような話である。
あるいは夢でも見ていたか。
きっと、トンネルの先に会いに行くのは、まだまだ早いと言うことなのだろう。私は自分の気持ちをそう整理した。あの時姿を現した妻も、そう思って私を森から追い返したの、かも、しれない。
それはそうと、あれ以来、私は週末になると部屋を出て、一人キャンプを楽しむようになった。もう一度あの森の奥で見つけたトンネルを、見つけたいような見つけたくないような。そんな揺れる気持ちを、小さく胸の奥に揺蕩せながら。
武蔵野・イン・ドアー てこ/ひかり @light317
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