アプセルムと神様
6月になり、焼けつくような夏の空気が漂う頃。夏バテまっしぐらだ。
いやもう、本当に暑い。冷房ガンガンに効かせて部屋にこもりたい。
この国に暖炉はあっても冷房はない。冷蔵庫や冷凍庫の魔法道具はあるから、対策は水遊びをしたり氷で涼をとるくらいのものだ。
日本の夏と違ってじめじめはしてないし、暑いながらも清々しさはあるんだけど、やっぱり暑いものは暑い。連日暑いとダレる。
そんな暑い夏のはじまり。母は三度目の出産を迎えた。
アプセルムの時とは違い、俺には二回目の経験だ。俺は、そわそわしながらも前回よりは落ち着いていた。
アプセルムは2歳になり、それはそれは可愛いが、母の後をついて回るお年頃である。
それなりに分別がある息子として扱われるようになっていた俺は、アプセルムの面倒を見ながら母の部屋にいた。
まだ陣痛はそんなに酷くないらしいが、一緒に過ごせるのはもう少しの間だけだろう。この国の貴族は立ち会い出産なんてしないからな。
折に触れて母に飲み物や果物を差し出し、まだ状況が飲み込めるわけがなく走り回る弟の興味を引き付けて大人しくさせ、かいがいしく世話をやく俺に、母は嬉しそうに笑いかける。
「ウリューエルトはこんなにもお兄ちゃんになったのね。まるで素晴らしい旦那様のようよ。いつかお嫁さんを迎えて自分の子供が産まれるときも、安心ね。」
まあ、前世の年齢と今世で記憶を取り戻してからを足すと、子供がいてもおかしくはないからな。
誉められると微妙だ。ちょっと繊細などこかに肘打ち決まった感じになるけど、今はれっきとした子供だから仕方ないんだよな。
10年後には言い訳をなくすのが今から怖い。
引きつりかけた顔をなんとか笑顔にして、母に礼をいう。誓っていい旦那様になろう。旦那様になれたら。
この世界全体なのか、この国の貴族の風習なのかは知らないけど、お産は女だけの戦いだ。
少しでも産気付いた母の部屋に息子がいるなんて、ちょっとないことなんだよ。
男性の医者が子供をとりあげる、とかもないらしい。徹底して女だけのイベントだ。
父はこの慣例にのっとって、母の部屋にはこない。だけど結局家族大好きなあの父は、忙しく仕事しながら、執務室でそわそわしてるんじゃないかな。
時々苦しげに顔を歪めるようになった母を置いて、アプセルムと部屋を出る。泣きそうなアプセルムを宥めて抱き上げ、俺は領主館の門の外に出る。
門のすぐそばの一角には、魔法植物の植え込みがある。
持ち帰って調べてみようとティリ山脈からツルペータ草や、他にも数種類あった魔法植物を採取しようとしたんだけど、ステータスも見てしまったし、なんだか愛着がわいてモノ扱いできなかったんだよな。
根っこごと掘り起こして、門の前に植え替えてみたら、今のところ枯れずにいる。
魔法植物の養分は魔力らしいから、毎日地道に魔力を与える。魔法植物自体に魔力を吸収する力があって、簡単にできた。
魔力を与えると、魔法植物はティリ山脈に生えていた時みたいにキラキラと光る。これが幻想的な感じで、アプセルムは大好きなんだ。
俺はしゃがんで、隣に佇んだアプセルムが真剣に見つめる前で、ひときわ良く育ったツルペータ草の葉っぱを突っつきながら、指先から細く長く魔力の糸を垂らす。ハチミツが滴るようにゆっくりと。
その糸を、緑の葉が引っ張るみたいに引き寄せて、すーっと消えていく。
魔力が満ちると繁った葉の周囲は、複雑に多面なカットを施されたダイヤモンドのように光を放つ。そんなに広くはない、せいぜい3畳位の植え込みは、光で満ちた。
アプセルムはその光景を喜んで眺めた後に、ふと表情を変えて、俺に向き直る。
「にぃに、にぃに。かーたま、いたい」
アプセルムが自分のお腹を撫でながら必死な顔で訴える。
「そうだな、お母様は、赤ちゃんを産むために頑張ってるんだ」
アプセルムはこてんと首を傾げた。まさしく天使のしぐさだ。
「アプセルムは、赤ちゃんのお兄様になるんだぞ。」
今度はこくんと頷いて、アプセルムが笑う。
「せうむ、にぃに。にぃに。うう、うーるしゃな、ううう、うーるしぁなう、うう…」
嬉しそうな笑顔はすぐに眉根を潜めた難しい顔に変わる。
それから、アプセルムは光輝く魔法植物の植え込みに歩み入り、小さな手を合わせて膝をついた。
「うーらしぁあなう、うーるしぁなう、えもいる、はすという、あうやなう……」
何を言っているのかさっぱりわからない、幼い言葉。なんだ、何が言いたいんだろう?
適当な言葉を並べているにしては、同じような言葉を何度も繰り返しているようだし、未熟な声帯で発音が叶わない言葉を、何とか形にしているようでもある。
たどたどしい言葉は、どこか歌うように流れる。まるで、何かを模しているかのように。
そして、その言葉に応えるように、周囲の輝きは増して眩いくらいになった。
「君は記憶力がとてもいいんだね、アプセルム。ユゥル・ヅ・アル・シアルムは君のそばに。
必ず君のお母様も妹も助けるよ。君たちは僕の大切な愛し子だもの。
だから、大丈夫。安心していいよ、敬虔なシアルムの信徒、アプセルム」
光の中にふっと現れたクロノが、アプセルムに笑いかけて答えた。
「ゆーるしぁあうしあうむ…」
アプセルムは、目を見開いてクロノを見つめ、呆然と呟く。その様子は、2歳児には見えない。
「君がアプセルムになったように、僕はクロノになったんだよ。
君はその記憶に頼りすぎると、この国の言葉を覚えることもままならないでしょう?
忘れていいんだ。今はもう、遥かに遠い昔だからね。
そして今度は、信仰なんかではなくて、友達になろう」
クロノが歩みより、アプセルムへ手を差しのべて立ち上がらせる。
二人を取り囲む煌めきは、勢いを増して空に広がり、領主館の法へと流れていったように見えた。
アプセルムは、遥か古代に栄えた国で聖職者をしていたらしい。
その記憶が魔法植物の魔力が輝く中で一部よみがえり、滑舌の育ちきれない声で古代語で祈りを捧げていたのだと、クロノに聞いた。
なんということはない顔をしてアプセルムと手を繋いでいるクロノに、俺は聞くことができなかった。
―――お前、さっき、母と妹を『助ける』って言ったよな?
その一言が妙にひっかかったんだ。
俺は、ゲームのウリューエルトの家族構成を知らない。ただこき使われてたモブだから、そんな情報はなかった。
あのゲームのウリューエルトに、母はいたのか?兄弟はいたのか?
もしかしたら…、それを尋ねる勇気はなかった。
大切な、家族だ。日本でのように、狭い家の中でいつでも顔を合わせているんじゃないけど、日に何回か顔を合わせて言葉を交わすくらいの距離だけど、同じくらい母の息子なんだ。
この神様は俺の知らないところでも、俺の大事なものを守ってくれているのかもしれない。なんてことない振る舞いで。
「クロノ、ありがとう」
心の底から沸き上がるものを、なんとか言葉にして伝える。
クロノはにこりと普段通りの笑顔を浮かべ、アプセルムと俺を見つめて嬉しそうに言った。
「僕たちは、これから先もずっとずっと幸せに過ごすんだよ、一緒にね」
難産の末に無事に産まれた妹は、銀の髪の小さな赤ちゃんだった。静かに大人しく眠っているかと思うと、部屋が揺らぎそうな大声で泣き出す。
疲れの隠せない母は、それでも嬉しそうに、幸せそうに妹を抱く。
その優しい瞳は、俺とアプセルムにも向けられている。
そんな光景を見て、俺はそこにある幸福を思い知った。
妹の名は『ルーンディエラ』。
カトゥーゼ家に増えた、奇跡のような宝物の名前である。
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