清算

 僕とあっくんは人影があった部屋に入ったが、そこには誰も居なかった。僕の口から「おらん」と力無い言葉が無意識に溢れる。不法侵入までして見つけたのは、ムラサキの幻影だったのだ。


「誰か居ったのは確実や」あっくんは力強く断言した。「さっき磨りガラス越しに誰かがこっち見てた。あの影は巨人で間違いあらへん」


 あっくんの力強い断言は失いかけていた自信を取り戻させた。僕は「手分けして探すぞ」と言い残して、ムラサキを探しに居間の方へと足を進めた。


 土足のままでも気にならない程に家は荒れていて、むしろ外なんかよりも汚いくらいだ。外に出る時は裸足でも構わないが、この家に入る時には靴が必要だろう。大量のゴミが溢れているせいで床が見えにくくて危険だ。


 僕が居間に到着したと同時に、男が別の扉から同じ居間へ入ってきた。僕と男は目が合い、男は迷いなく僕の方へと歩みを進めた。ケイ君とヤーさんでは男を抑えきれなかったのだろう。そんな相手と戦っても僕に勝ち目は無い。直ぐにでも逃げなければならないのだが、僕は床に落ちていたゴミにつまづいて転けてしまった。


 男は大量に発汗しており目は見開いている。彼の大きな手には少し曲がった紫色の傘が握られており、それの用途を想像するのは容易だった。雨が降った時に使うのではなく、血の雨を降らす為に使うつもりなのだ。


「やめろ」


 居間に響いた大声の発生源を見ると、男の後ろで拳銃を構えるケイ君が居た。僕にはその拳銃がエアガンやガスガンでは無いと直ぐに解った。その拳銃には見覚えがあり、いつの日かヤーさんが持ってきたトカレフだ。


 男は後ろを振り向いてケイ君と対峙した。拳銃と曲がった傘では、どちらが有利かは誰にでも解るが、きっと男は本物の拳銃が出てくるなんて考えていないだろう。


「撃つぞ」ケイ君は鼻血を垂れ流しながら叫んだ。彼の構えた銃口は震えていて、近距離の男ですら命中させるのは難しそうだったし、もしかすると僕の方に銃弾が飛んでくるかもしれない。


 男はトカレフに臆する事なくケイ君との距離を詰めた。男からすれば戦意の無い僕よりも、戦意を保ったケイ君から攻撃した方が良いと判断したのだろう。


 ケイ君が躊躇って引き金を引けない間に、男の手にしていた傘がケイ君の頭にヒットした。ケイ君はトカレフを床に落として顔を両手で抑えながら蹲った。傘の先端についた金具で顔を切ったらしく、ケイ君の顔と手は真っ赤に染まっている。


 まるでドラマや映画のように血を流すケイ君に向かって、男は何度も傘で追撃をした。ケイ君は攻撃から身を守るために蹲りながら耐えている。もしもケイ君が僕を助けに来なければ、ああやって僕が男の攻撃に耐えていたのだろう。


 ケイ君を助けるために僕が立ち上がると、男はこちらに振り向いた。このままではケイ君と同じように僕もやられてしまうが、立ち上がるのに精一杯で打開策を考える余裕はない。


 男が僕に近づこうとしたと同時に、居間にヤーさんが入ってきた。彼が来ても現状は不利なままだし、むしろ被害者が増えるだけだ。ヤーさんは血を流して倒れているケイ君を見て発狂した。もしかすると、ヤーさんはケイ君が死んでいるとでも勘違いしたのかもしれない。


 ヤーさんはヒステリックに叫び、床に転がっていたトカレフを拾ったが、男はヤーさんを無視して僕に向かって傘を振り上げた。


 これから起きる悲劇に対して、僕は目を閉じて両手を頭にかざす。頭と顔さえ守る事ができれば幸運だろうと考えていたが、そんな心配は杞憂に終わる。傘が僕に命中する前に、鈍くて大きな破裂音が鼓膜を震わせたのだ。


 薬莢とスライドの甲高い小さな音や大きな物が床に倒れる音が耳に入り、まさかと思って目を開けると、男は僕の前で頭を撃ち抜かれて倒れていた。頭から飛び散った血は周りを汚し、うつ伏せで倒れた男は腰が伸びたかのように不気味な動きをみせた。ゴミだらけの床を自分の頭髪をモップ代わりにしたように引きずって、20センチくらい進んでから全く動かなくなった。


 男は今にも動き出しそうだった。当然だがこんな男にも赤い血が流れていて、頭からは今も鮮血が垂れている。コップ3杯分程度の血しか流さなかった男は、死んだふりをしているみたいだ。


 男を撃ったヤーさんの方を見ると、彼は涎を垂らして泣きながら、掠れた声で「だって」と何度も呟いている。


 ケイ君は頭から鮮血を流しながら起き上がり、パニックになっているヤーさんの背中を摩った。やがてドタドタと走る足音が聞こえ初め、あっくんが居間にやってきた。


「あかん」あっくんは小さくそう言って、悲惨な現場を眉間に皺を寄せながら眺めた。


 ケイ君はヤーさんの握っているトカレフを取り上げて立ち上がり、落ち着いた声で「みんなは逃げてくれ」と呟いた。


「何言うとんねん」あっくんはそう言って死体を避けながらケイ君に近づいた。「ケイ君が言うとるのは、みんなで逃げるって事やんな?」


「この銃を持ってきたのは俺や」ケイ君は額から流れる血を袖で拭きながら話した。「皆は俺を置いて逃げろ。俺がこの男を殺したんや。もし誰かに何かを聞かれても、俺がこいつを撃ったって事にしろ。絶対に俺が殺したし。みんなは何もしてない」


「そんな冗談ええから。早くみんなで逃げるで」

「逃げれる訳あらへん。責任を取るのは一人でええ。それが俺や」


「一緒に……」あっくんがケイ君の腕を掴もうとすると、ケイ君はそれを拒んで「時間ないから早く行け」と強く返した。いつもの優しいケイ君とはまるで違う。


 ケイ君はへたり込むヤーさんを立たせて、「頼むから早く行ってくれ」とだけ言った。僕はどうすればいいのか解らずに立ちすくみ、あっくんにもケイ君にも同調できずにいた。


 あっくんは納得ができずに「でも……」と言ったが、ケイ君はそれを遮るようにトカレフの銃口を男に向けて引き金を引いた。閃光と白い煙を視認した後には、硝煙の匂いだけが残った。あっくんの反論は大きな銃声でかき消え、撃たれた男は息を吹き返したかのように再び少しだけ動いた。


「早く」ケイ君は叫んだ。


 あっくんは僕の顔を見て判断を仰いだが、正解なんて解るはずはない。首を縦にも横にも振れない僕は、きっとこの現実に触れたくないのだ。うだうだしている僕たちに痺れを切らしたケイ君は、再び銃口を男の死体に向けた。


 ヤーさんはヒステリックに叫びながら、トカレフを握っているケイ君の腕に飛びついた。きっとヤーさんはケイ君がまた男の死体を撃つと思ったのだろう。突然の出来事に驚いたケイ君は、男に向けていた銃口を逸らして、思わず引き金を引いてしまった。


 銃声と共にあっくんが叫んだ。


 銃口の先にあったのはあっくんの右太ももだ。あっくんは自分が撃たれた事を認識してから崩れるように倒れ、血が吹き出した右太ももを抑えて泣き叫んでから気絶した。ケイ君はスライドストップの掛かったトカレフを放り投げて、あっくんの元へ駆け寄った。


「そこの電話とってくれ」ケイ君は僕の後ろにある固定電話を指差しながらそう言った。僕は震える手で受話器を取って119に連絡を入れようとしたが、ケイ君は「俺が電話する」と強く言った。


 救急車を呼んだケイ君は受話器を置いて、僕とヤーさんに「あっくんと俺は残るから、大ちゃんとヤーさんは早く行ってくれ」と懇願するように言った。


 ヤーさんは何かが吹っ切れたかのように部屋を飛び出した。卑怯な心を持って逃げたと言うよりは、目の当たりにしたくない現実から逃げたという走り方だ。ヤーさんは皆から逃げたのではなく、自分から逃げたのだろう。


 泣き叫びながらヒステリックに走るヤーさんを見て、ケイ君は「頼んだで」と僕の目を見ながら言った。僕は考えるのも面倒になり、ヤーさんを追って現場を後にした。


 僕は皆から逃げたのだ。

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