親父
ドアを乱暴に開けたのは髭面で肥満の男だった。ただでさえ胴長短足なのに、それを更に強調させるような体型をしている。とどのつまりトドのような男だ。日本人離れしたムラサキの外見と比べれば、この男は外国人離れしていると言えるだろう。
「誰だテメェら?」と男は怒鳴った。他者を威嚇する為の声質には暴力の臭いが漂っているものだが、彼の口からはしっかりとアルコールの臭いもした。
「あの」ケイ君が僕達を代表して口を開いた。「藤村さんの家で間違いないでしょうか?」
「ちげーよ。さっさと帰れクソガキ」
「藤村咲さんのお父様ですよね?」
「だから藤村じゃねぇ、つってんだろうが」
態度と体型が無駄にでかい男の隙間から玄関を覗くと、そこにはムラサキがいつも履いているコンバースの靴が置いてあった。ケイ君の丁寧な対応では追い返されるのが関の山だろうと思い、僕は「あの」と言って会話に加わった。
「ここが藤村さんのお宅なのは解っているんですけど、咲さんはいらっしゃいますか?」と僕が男に向かって言うと、彼は大きな音で舌打ちをした。こんな小汚くて品の無い男がムラサキの親だとは信じ難いが、そうで無いのなら彼は一体誰だというのだろう。
「咲ならママと一緒に1週間くらい前からどっか行っちまったよ」
「それは無いかと思いますけど?」
「どうしてテメェにそんな事が解る?」
「そこに靴がありますから」
「だったらなんだ?」男はそう言って鼻で笑った。「靴があったからどうしたってんだ。テメェはチビのくせにデカにでもなったつもりか? いいかよく聞けチビガキ。玄関に靴があっても何らおかしくはねぇんだ。俺の家にはなんでもあるんだよ。解ったか?」
僕は濡れた傘を指さして「これなんて3つもありますしね」と言うと、男は顔を赤くして怒りを露にした。男が何かをしようと動き出したとき、それを遮るようにケイ君が「実は」と大きな声を上げた。
「担任の先生に言われて来たんですよ」とケイ君は嘘を吐いた。「藤村咲の様子を見に行って欲しいと頼まれまして、それでお伺いしたのですが」
「だから言っているだろ。咲なら居ない。もう帰れ」
「いつ頃になれば戻って来ますか?」
「知らねぇ。もういいか?」
「真面目に聞いているのですから、真剣に答えて下さい」
「俺が笑っているように見えるか? ふざけているように見えるか? いいか、俺は真面目だ。それに今では真剣にお前を殺そうかとも思っている」
黙ってしまったケイ君の代わりに僕が何かを話そうとしたら、それを見越したかのように男は僕に指をさして牽制した。
「お前は最初に殺してやる」男は僕に指を突き付けながら怒鳴った。「殺されたくなかったら早く帰れ。これ以上、お前の汚い歯並びを見せようものなら、もっと酷くしてやるぞ」
「先生のほうには」とケイ君は改まって言った。「咲さんは居なかったと伝えておきますが、いつ頃になれば学校へ戻るのかだけでも教えて下さい」
「俺はお前らに帰れって言ったんだ。お前らにお願いをしているんじゃない。これ以上ここに居るつもりなら、そのお節介な先生とやらに電話してお前らに迷惑を掛けられていると言いつけてもいいし、もっと厄介な警察を呼んでやってもいいんだぞ?」
この男には何を言っても無駄だと解っている。それでも、何かを言わないと気が済まないのが僕という人間だ。一言多いせいで何度も痛い目に遭ってきたし、この男を挑発するのが痛い目に繋がる事も理解しているが、僕の口は言葉を放とうと開き始めた。
「学校を休んでいる友達を心配して尋ねてきた僕達が怒られるなら、子供に暴力を振るう親はどうなるっていうんですか?」
言い終わると同時に男は僕に前蹴りをくらわせた。僕は腹に衝撃を受け、勢いよく後ろにへたり込んだ。何かをされる覚悟をしていたからか、そもそも男の蹴りに威力がなかったからかは解らないが、攻撃を受けた箇所はそこまで痛まず、倒れた時に打った尾骶骨の方がじんわりと痛んだ。
ヤーさんとケイ君が僕と男の間に入り、あっくんは僕の肩を持って起き上がらせてくれた。僕は蹴られた部分を撫でながら恨みを込めて男を睨んだが、相手は平然と「どうかなるのはお前らだ」とだけ言った。まさか本当に手を出すとは考えていなかったので、僕達は言葉を失ったまま呆然とした。
「二度とここに来るな」男はそう言って勢いよく扉を閉めた。扉の内側からは鍵を施錠する音と、チェーンを掛ける音が聞こえた。
「行こう」ケイ君がそう言って歩き出したので、僕達は彼に付いて行って階段を降りた。僕達はムラサキの住んでいる棟から離れ、広場にあるベンチに腰を掛けたが、誰も話す事なく横並びに座ったままだ。充分な時間が過ぎてから、ケイ君は「蹴られたところは大丈夫け?」と僕に尋ねた。
「そない痛くないけどやで。まさかホンマに手を出してくるとは思わへんかった。まぁ、出されたんは足やけど」
「流石に挑発しすぎやったんとちゃう?」
僕はケイ君の指摘に苛立ちを覚えた。僕が間違えていた事は自分でも解っているが、それでも正解が見つからない中で健闘をしたつもりだ。答えを持っていない癖に間違いを指摘してほしくない。後になって言うくらいならその場で止めて欲しかった。
「僕が悪いんか?」自分でも驚くくらいの嫌な声が出た。勿論、ケイ君とここで争うつもりなんてないし、大前提として僕が間違っていた事も理解している。それでも苛立ちが声に現れてしまったのだ。
「大ちゃんが悪いなんか一言も言ってへんがな」
「そうは言ってなくても、そうにしか聞こえへん」
険悪な雰囲気を漂わせている中で、ヤーさんが「落ち着こう」と静かに言った。ヤーさんはベンチから立ち上がって、僕とケイ君の肩にゆっくり手を置いた。まるで、どちらにも肩入れしないという意思を見せつけるように。
「ごめんな」僕は昂った気を鎮めながら言った。「別にケイ君と喧嘩したい訳やない」
「こっちこそ、ほんますまんわ。偉そうに言うてしもた」
僕とケイ君が仲直りをしていると、あっくんが「説明してくれや」と言って久しぶりに口を開いた。あっくんの唐突な言葉に対して、僕を含めた皆が目を丸くさせた。
「大ちゃんが変な所でムキになんのはいつもの事やけど、なんか最近はムラサキ関連になると特に変や。ずっと思っててんけど、大ちゃんはなんか隠してる気がすんねん。正味な話。ムラサキが姿を現さん理由を、ほんまは知ってんとちゃうけ?」
「さっきのも」ケイ君はそう言って黙っている僕に向き合った。「まるで、なんかされんのを解ってたみたいや。言葉が変やってん。大ちゃんは暴力を振われる前から、暴力が行われているのを示唆しとるかのようやった」
迷った結果、僕は皆に先週の出来事を話す事にした。できれば誰にも話したくはなかったが、頭の良いケイ君や勘の鋭いあっくんなら、僕が言わなくてもある程度の状況は解るだろう。だから僕はムラサキが泣いていた事以外を全て話した。髪を突然切り出した事や、親父から暴力を受けた事などだ。
僕が先週の金曜日に起こった出来事を滔々と話していると、ケイ君は「今、なんて言った?」と突然言った。
「親父から暴力を受けた。って所?」
「さっき、色々なって言わんかった?」
「あぁ、ムラサキは色々な暴力を受けたって言うてたで」
「それに、さっき言うてた女だからってのはどういう意味なんや?」
「解らへん」
ケイ彼は「色々な」という言葉と「女だから」という箇所に過剰反応したが、僕にはその理由が判然としなかった。
「色々な暴力ってのがなんなん?」と僕がケイ君に尋ねても、彼は「いや」と短く返しただけだ。ケイ君だけが何かを悟ったような雰囲気を漂わせ、僕は彼に置いていかれるような感覚に陥った。あっくんとヤーさんだって僕と同じ気持ちのはずだ。殴る蹴るだけが暴力ではないのかもしれない。
ケイ君が僕の質問に答えない事に意味があるのは解っているし、意味に伴って理由があるのも解っているつもりだ。だからこそ、彼にどういう事か教えて欲しいと頼むのは間違っている気がした。
「許されへん。そんなん父親でもなんでもあらへん。ぶち殺したる」
ケイ君の言った「殺す」という言葉が冗談だとは解っているが、彼の目は本気で人を殺しそうだった。
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