訪問
ムラサキの住んでいる棟に到着したと同時に、ケイ君は僕達に追いついた。走ってきたケイ君は息を切らせ、額にはうっすら汗までかいている。今の季節に似つかわしくないケイ君の姿は、僕の冷え切った体を少しだけ暖かくしてくれた。
「ごめん」ケイ君は息を整えながら喋った。「みんな納得しやへんから振り切って逃げてきてんけど、ちょっと待たせてしもたかな?」
平然を装うように笑みを浮かべるケイ君に対して、あっくんが「俺らも丁度来たところやで」と返した。その言葉にケイ君は安堵の表情を浮かべ、自身が着ている色褪せたミリタリージャケットを脱いだ。彼はジャケットの下にボロボロになったアディダスのトラックジャケットを着ていて、そのボロボロ具合ときたら穴あきのアナーキー状態だ。
ジャケットを片手に持つケイ君に向かって、僕は「ほんま、今日は寒いよな」と言って揶揄った。ケイ君は笑いながら手で額の汗を拭き、僕に「人肌が恋しいんなら抱きしめたるで?」と返した。
「そんな事よりやで」あっくんは僕に改まって言った。「この棟に巨人が住んどるのは確かやけど、あいつが何階の何番に住んどるのか知っとるけ?」
僕はあっくんの質問に答えられなかった。ムラサキは自分の家族についてを隠す傾向があるし、彼女の家に招待された事だってない。ムラサキはハーフなので、親が外国人だから家族の事を言いにくいのだと思っていたが、もしかすると他に理由があるのかもしれない。
ここらの団地に住んでいる子供達は、大概が親同士でもある程度は繋がっているが、ムラサキの両親については僕の親も知らない。町内会だか自治会だかジジ会だかババ会だかPTAだか、子供の知らない所で親は繋がっていたりするものだ。でも、ムラサキの両親の噂を聞いた事はないし、それどころか姿を見たこともない。
「郵便受け見ればわかるやろ」ケイ君が集合ポストの場所へ歩みを進めたので、それに皆が付いて行った。どうやら誰もムラサキの家を知らないらしい。
ステンレスで出来た集合ポストの大概は南京錠をつけて施錠されており、まるで小人や妖精を監禁しておく為の小さな檻のようだった。装飾を排して機能性だけを追求したポストのデザインは、洗礼されているが故の冷たさと寂しさを漂わしている。
「どれやろなぁ」あっくんはそう言いながら名札を確認していった。
郵便物を今にも吐き出しそうなくらい詰まったポストや、入り口を養生テープで塞がれたポスト、故意か事故で凹まされたポスト、そんなポストには色々な名札が差し込まれている。明らかに日本のものではない漢字や、読めない筆記体で書かれた英語、エスニックなアジアを彷彿とさせる縮緬雑魚を並べたような文字、名札に書かれた文字は多種多様だ。
「これちゃうけ?」
ケイ君が指さした先にある名札には、「FUZIMURA」と記入されている。僕にはローマ字が上手く読めないが、きっと藤村と書かれているのだろう。グローバルな時代においては優しい表記だが、馬鹿な子供には厳しい表記だ。ローマ字表記でも読める名前は、きっと「E.YAZAWA」くらいだろう。その辺の車に貼ってある矢沢永吉のステッカーと、この名札に書かれた「FUZIMURA」という文字が僕には同じに見える。少し「Z」が違うくらいだ。
「204」とあっくんは嬉しそうに呟いた。「ほんなら、早速カチコミと行こうやなか。巨人の驚いた顔を拝んだろやないか」
僕達は階段で2階へ上がって204号室のドア前へ向かった。外廊下に面した窓から室内の様子を伺おうと思ったが、磨りガラス越しでは何も解らなかった。
窓の格子には紫色の傘とビニール傘が2本掛けられていて、全ての傘が少しだけ濡れている。先週はずっと晴れていたのに、今週は雨が多かったせいだろう。
ケイ君は緊張した面持ちで「押すで?」とだけ呟き、僕達は黙って首を縦に振った。初めて行く家の最初に押すインターホンには、人を緊張させる魔法が掛かっている。きっと、NHKにでも入社しないとこの魔法が解ける事はないだろう。
ケイ君がゆっくりとインターホンを押すと、外にも聞こえるくらいの大きなチャイムが鳴ったが、中からの反応は全く無かった。張り詰めた緊張感が弛緩され、様々な感情が僕の中を駆け巡った。安心と不安のアンビバレントな感情が、僕の感覚を研ぎ澄ませる。
僕は感覚や勘が鋭い。今まで直感と親だけを頼ってきたと言っても過言ではないくらいだ。こんな事を誰かに言えば「お前はどう考えても鈍感だ」なんて返されて、誰も僕に同感するとは思えないが、僕自身は自分の感覚を信じて疑わない。そしてその鋭すぎる感覚が、この家にムラサキが居ると訴えている。
「居らんで」
「やっぱ、巨人はどっか遠くに行ってんちゃう?」
「そうなんかもせえへんな」
「どうする?」
皆がドアの前で遠慮がちに喋っている間に、僕は横にある電気メーターの回るスピードを確認した。
「もう1回鳴らしてみよう」と僕が提案すると、ケイ君はもう一度インターホンを押した。中からの反応は全く無いままだが、今でははっきりと人の気配を感じ取る事が僕には出来た。
皆が諦めて帰ろうという空気を醸し出していたが、僕はドアを軽く2回叩いてから、中に聞こえるように「すいません」と大きく声を掛けた。僕の声に反応するように、廊下に面した窓の部屋から物音が聞こえ、ようやく皆も中に誰かが居るのだと悟った。
ケイ君は無言で僕達の顔を見た後、もう一度インターホンを押した。
「うっせぇなぁ」と中から男の怒鳴り声が突然聞こえ、僕達は驚きで体をびくつかせる。「いねぇって言ってんだろうが、何回もベルを鳴らしやがって」
先程まで静まり返っていた家の中から、ドタドタと怒りを露にした足音が聞こえ、その音はこちらにどんどん近付いて来ている。逃げ出そうかとも考えたが、ここで逃げてしまえばピンポンダッシュをしたのと変わりないし、これから出てくるのはきっとムラサキの父親なのだから臆する必要はない筈だ。
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