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金曜日になってもムラサキの姿を目にする事は無かった。一週間も彼女の姿を見なかったのは初めてかもしれない。最後に見たムラサキの大人びた姿を思い出すと、僕は彼女の事が心配になる。
僕は7棟の屋上にある汚れたソファーに1人で座り、目を瞑ってラジオから流れる曲を聞いていた。汚くて大きなラジオからは、汚くて大きい音が流れている。
座っているソファーが重みで沈むのを感じ、僕は目を開けて隣を確認した。そこにはヤーさんが座って居る。無言で近付いてくるのなんてヤーさんくらいだろうと予想はしていたので、僕は全く驚かずに済んだ。
ヤーさんはいつものように真っ黒の服を着込み、人一倍寒そうな坊主頭は真っ黒のニット帽に包まれている。彼は何も言わずに僕を見つめた。瞬きが異様に少ない三白眼の目からは、暖かみと優しさを感じとる事が出来た。
「やぁ」と僕は言って、隣に座るヤーさんに拳を差し出した。
ヤーさんは無言で頷いて僕と拳を合わせた。こんなに寒くても7棟の屋上には10人以上のガキが居て、皆が適当にグループを作って遊んでいる。僕とヤーさんが何もせずにソファーに座っていると、バドミントンのシャトルが足元に飛んできた。僕は重い腰を上げて年下のガキにシャトルを渡し、ラジオの電源を切ってからソファーに座った。
「勉強してるらしいやん」僕の言葉と共に出た息は白い。煙のような息は僕をワクワクさせたので、再び息を大きく吐いてみた。
「まぁ」
「かしこやん」
ヤーさんは照れたように首を振った。今までヤーさんと同じクラスになった事が無いので、彼がどのくらいの学力を有しているのか判然としないが、勉強という行為に勤しめるくらいは賢いのだろう。僕とは大違いだ。
「なんか将来の夢でもあるん?」
「大学に行く」
「大学なぁ」僕には大学というものがいまいち解らない。大学どころか高校というものもよく解っていない。自分の先に待つ人生に興味が無いのか、そもそも先を考えたりする事が出来ないだけなのかも解らない。ただ、考えようとした事が無いのは確かだ。僕は永遠に小学校というものが続くと勘違いしていたのかもしれない。
「大学から先は考えてない」
「大学に行こうとするのも凄いやん」
僕だって大学へ通ってみたいが、きっと中学を卒業すれば働く事になるだろう。高校へ行くのが当たり前ではないことを理解しているし、大学へ行くのなんて不可能に近いだろう。僕の両親だって中学を卒業してから働いているし、親に敷かれたレールというものが上りだけでない事を理解している。こんな事を言えば叱られるかもしれないが、この敷かれたレールの先が安泰から遠い事も解っている。それでも、それを進むしか無いのが子供だろう。ヤーさんはレールから外れようと勉強をして頑張っている。言わばヤーさんは大人なのだ。
「そういえば、ムラサキはどうしたんやろな?」ヤーさんは言葉少なに、ムラサキの心配をしているのを僕に伝えた。流石に一週間も顔を見せないのは変だ。インフルエンザにでもなったのかもしれないが、それなら担任の先生が教えてくれるだろう。他の理由で1週間も姿を見せないのだが、僕にはその理由が全く想像つかない。
「解らへんねん」
「大丈夫かな?」
「何回か先生にムラサキの事を聞きに行ってんけど、大丈夫とは言ってたで。せやけど、なんで休んでるのか聞いても体調不良としか答えへんし、いつ学校に戻れるのかも教えてくれへん」
僕が先生と話した内容を伝えると、ヤーさんは眉間に皺を寄せて顔を傾けた。ヤーさんはこの場に居ない先生を無言で非難しているのだろう。
「子供やからって馬鹿にしてる」
「ヤーさんのいう通りや。先生ってのは話を聞かそうとはする癖に、聞こうとはしやへん。あくまでも自分が話す立場やと勘違いしてる。話す事よりも聞く事のできる大人っておらんのかもなぁ」
「俺たちが……」ヤーさんはそう言って僕ではなく遠くを見つめた。「俺たちが、そうなればええ」
きっと、ヤーさんなら素敵な大人になれるだろう。そんな事を漠然と考えながらヤーさんを見つめていると、僕の視線に気付いた彼は顔を真っ赤にして微笑んだ。
屋上の扉が開いてそこからケイ君とあっくんが入ってきた。屋上に居たガキ共は、「あっ、ケイ君だ」等と言って彼の元へ向かった。ケイ君はみんなの人気者だし、久しぶりに来た彼に対して皆が喜んでいる。
僕は遠くからケイ君の人気ぶりを眺めていた。彼の人気ぶりはハリウッドスターや、遊園地のマスコットキャラクターを彷彿とさせた。ケイ君に向かって皆が「遊んで」とせがんでいるが、彼は「また今度な」と申し訳なさそうに返している。
ガキ共に囲まれて行く手を阻まれているケイ君とは違って、あっくんは僕とヤーさんの元へ一直線に歩いてきた。
「みんなケイ君が好きやな」と僕は言った。
「ケイ君がここに来るの久しぶりやし、もしかしたら最後かもしれやんしなぁ」あっくんはそう言いながら、僕とヤーさんの間に体をねじ込ませて無理矢理座った。「こんなクソ寒い中で辛気臭い顔して、いったい2人は何してたんや?」
窮屈になったソファーで僕は「何も」とだけあっくんに返した。ヤーさんは尻を少しだけ動かして座り直し、窮屈な2人掛けソファーから立ち上がろうとする者は居ない。異様に凹んで軋むソファーは、今にも足がへし折れそうだ。
「実はケイ君と一緒に大ちゃんとヤーさんを探しに来たわけよ」
「なんでまた?」
「今から、みんなでムラサキの家にカチコミしようおもてな。数合わせやがな」
「要するに」僕はそう言って居心地の悪いソファーから立ち上がった。「今から
ムラサキのお見舞いにでも行こうって事やな?」
「アホ言うたらあきまへんで。見舞いなんて大層なもんやないけど、ちょっと様子だけでも見に行こうってこっちゃ」
「要するに、様子を見にお見舞いに行こうって事やろ?」
「まぁ、ちょっとちゃうけど、御両人もどや?」
僕は立ち上がった事で既に了解の意を示しているので、あっくんはヤーさんの方を見て意思を確認した。ヤーさんは無言のまま立ち上がり、あっくんもそれに続いて立ち上がった。
「ほな、行こか」あっくんはそう言って先頭を進み、ガキに囲まれて身動きの取れないケイ君の元へと向かった。「大ちゃんとヤーさんも一緒についてきはるって」
ガキ共と軽く遊んであげているのか、ガキ共に軽く遊ばれているのか解らないケイ君は、僕達に「解った。すぐ行くから先に行っといて」とだけ返した。ガキ共は「待って」だとか「もっと遊べ」だのと言ってケイ君に非難を浴びせながら、彼の腕や足を掴んで決して離そうとはしない。
「ケイ君はえらい人気やなぁ」あっくんはそう呟いた後に、大きな声で「先言っとくでぇ」と叫んだ。ケイ君を焦らせるように大声で言ったのではなくて、周りに居るガキ共に解らせるように大声を出したのだろう。
僕達はケイ君を置いてムラサキの家へと向かった。僕が屋上の扉を閉める頃には、ケイ君の「また、今度ゆっくり遊ぼう。今日は忙しいから」とガキ共を説得する声が小さく聞こえた。
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