帰路

「大ちゃんには心配をかけたみたいね」ムラサキは改まって言った。「ごめんなさい。そして、ありがとうね」


 僕はムラサキの横を歩きながら、変な髪型になった彼女の横顔を見やった。さっきまで泣いていたとは思えない程に平静さを保っているというよりは、まるで別人にすり替わった様に思える。髪のせいかもしれないし、僕が抱くムラサキに対してのイメージが変わったせいかもしれない。


「僕だけやないで」


 ムラサキは僕の方を向いて首を傾げた。心配していたのは僕だけじゃないという意味だったのだが、どうやらムラサキには伝わらなかった様だし、よく考えれば伝えなくてもいい気がした。


「謝罪も感謝もいらんよ」僕はムラサキから視線を逸らせて言った。強い向かい風が襲いかかり、僕は目を細めながら耐えた。


「じゃあ、何が欲しいの?」

「前に貰ったヘミングウェイがあるから充分や」

「読んでくれた?」


「読む?」今度は僕が首を傾げた。英語の本を僕なんかが読めるわけないし、そんな事はムラサキにだって読める筈だ。


「ヘミングウェイの本をよ」

「あれは本やったんか。てっきり枕か何かやと思ってたわ。もしくは、揚げ物の下に敷いてお洒落にするやつかと」

「きっと、大ちゃんが本を枕にすると悪夢を見るし、揚げ物も美味しくなくなるでしょうね」


 僕は少しだけ笑ってから「読める様になったら、感想を言うわ」とムラサキに約束をした。いつになるかは解らないが、きっと大人になれば英語だって簡単に読む事ができる筈だ。


「読まなくてもいいけど」嬉しそうな表情を見せるムラサキに僕は魅せられた。「大切にしておいてくれたら嬉しいな。私が大ちゃんに本を渡したのは、感想が欲しいからとか、内容を話したからとかではないの。大ちゃんにとって大切な物だったら良いの」


 僕は「わかった」とだけ返した。冬の寒空は言葉を直ぐに溶かす気がして、自分の発言に自信が持てなかった。寒い状況で発する温かい言葉は、熱と厚みを失うらしい。熱くて薄い恋の感情を外に出すには、今日は少しだけ寒すぎるだろう。


 北川住宅の中心を通る大きな歩道に差し掛かると、ムラサキは「じゃあね」と言った。不安や心配の感情が拭えない僕は、思わず「家まで送ろか?」なんて柄でもない事を呟いた。こんな事を言えばムラサキから煙たがられるだろう。


「家の場所くらい覚えているわ」ムラサキは僕の右肩を軽く小突いた。「私を女扱いしないでよね。あと、子供扱いもしないで」


「女扱いも子供扱いもしたつもりはないねんけど、なんかムラサキが迷子に見えてん」

「迷子になるほど複雑な道を歩いているつもりなんてないわ。ただ、引き返せないってだけよ」

「家の場所と僕に帰ると言った発言さえ覚えてくれてたらええよ」

「どっちもちゃんと覚えてるわよ」

「ほんなら気を付けてな」


「大ちゃんこそ気を付けて帰りなさい。ママに叱られて泣いちゃ駄目よ。じゃあまたね」ムラサキは笑いながらそう言って、広場の在る方向に走って行った。広場を少し越えればムラサキの住んでいる棟が在るので、ここから走れば三分もしない内に家へ帰れるだろう。あんな変な髪型で家へ帰っても平気なのかと考えながら、軽く走るムラサキの後ろ姿を眺めていると、彼女は振り返らず背中越しに手を振った。ムラサキの前方に人影は無いので、おそらくは僕に対して手を振ったのだろう。


 僕は立ち止まってムラサキを見ながら、遠慮がちに軽く手をあげて振った。ムラサキは振り返らないまま走り去ったので、僕が手を振り返している事には気付いていないだろうし、自分が手を振っていたのを見られた事にも気付いていないだろう。僕は踵を返して歩き始め、足速に帰るべき場所へと向かった。



 ドアノブを回すと家の扉には鍵が掛かっていて、ガチャガチャと音を立てるだけで開かなかった。鍵を取り出そうとポケットを探ると、ムラサキに返しそびれたハサミが出てきた。今になってムラサキの事を考えてみると、一緒に家出をした方が良かったのでは無いかと、自分でも馬鹿だと思うくらい変な事を考えてしまった。


「おかえり」と言う母の声がドア越しに聞こえ、直ぐに鍵が開く音が聞こえた。インターホンも鳴らしていないのに、ドアノブの音だけを聞いてやってきたのだろう。母が玄関付近で僕を待つ想像をして、愛という抽象的なものを感じた。


 僕はドアを開けて家へと入り、外の冷気が入ってこないよう直ぐにドアを閉めて鍵をかけた。ケチャップをフライパンで炒めたような晩飯の香りと、石油ストーブが作り出す暖かな香りが、僕の精神状態を安定させた。


 僕が「ただいま」と言う前に母は怒鳴り始め、居間からは玄関を覗くように兄貴が様子を伺っていた。紫色のハサミなんかよりもキレる母を見て、自分の選択は間違っていない筈だと安心し、僕は少しだけ泣きそうになった。


 ここで泣けば後で兄貴から揶揄われるだろう。母に叱られて泣くような弱い人間と勘違いされないように、僕はいつもよりタフな姿勢を見せつけ、心配をさせた事に対しての謝罪をした。


 黄色い声という表現を聞いた事があるが、母の怒鳴り声は薄い赤色を連想させる。母が放つ怒りと優しさが混じった薄い赤と、僕が心に抱えている冷え切った薄い青が混ざり、やがて鮮やかな紫色が全てを覆い尽くしていった。


 ムラサキは今頃どうしているだろうか?

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