約束
「きっと……」ムラサキは泣きながら話を続け始めた。「私が女だからパパはあんな事をしたの。女の私が悪いの。女だから駄目なの」
「何をされたんだ?」と僕が尋ねてみても、彼女はしゃくり上げただけだ。きっと、ムラサキは女という理由で親から馬鹿にされたのだろう。長くて綺麗な髪を切ってまで強さをアピールしたのだ。
いや、馬鹿にされたくらいでムラサキがここまで落ち込むだろうか?
しばらく無言の時間が続いたが、ムラサキはやがて「私ね……」と決心した様に言った。「私、パパに暴力を振るわれたの。色々な……」
「そうなんや」と僕は言った。ムラサキが怪我をしている様には見えないし、先程の女だから駄目というのも意味が解らない。男の方が親父から暴力を振るわれる気がするし、僕だって結構な頻度で親父に殴られている。
僕の親父は酔っ払うと家族を殴る。阪神が負けても殴る。親父が酔っ払っている時に阪神が負ければ、家族はみんなで避難しないといけなくなるくらい暴れる。親父の暴力に愛がない事は分かっているし、そもそも彼は僕にあまり関心がないのだ。放任主義というよりは育児放棄とやらに近いだろう。そんな親父が僕に暴力を振るうなんてのは日常茶飯事だ。だけど、ムラサキにとっては違うのだろう。父親という存在に期待しすぎていたのだ。
「ねぇ」ムラサキは震える声で言った。寒さで震えているのか悲しさで震えているのか、はたまた恐怖や怒りによって震えているのかは解らない。きっと、色々な感情が複雑に混ざったせいで震えているのだ。
「なんや?」
「絶対に誰にも言わないって約束してくれる?」
「何を?」
「私は約束できるのかを聞いているのよ」
ムラサキは大分と落ち着いてきたらしく、顔を上げて僕の目を見て言った。彼女の顔には泣いていた跡はしっかりと残っていたが、新たに湧き出る涙はなさそうだ。
「約束の内容によるな」
「だから言っているじゃない。誰にも言わないでって」
「泣いていた事を?」
「全部よ」ムラサキの声はもう震えていない。
「泣いてた事は絶対誰にも言わんから安心せえ」と僕は言った。口は堅い方だしお喋りな人間でもないが、僕には卑怯で狡猾な部分がある。だから「泣いていた事は」と言ったし、約束の内容もしっかりと確認したのだ。
世の中には簡単な約束すら守れない奴もいるし、守れない約束を簡単にする奴もいる。そして、僕みたいに言葉の綾を利用する奴も居るのだ。泣いていた事は言わないが、何があったのかは言ってしまう可能性がある。僕だけでは対処できないと判断すれば、きっと誰かに相談する事になるだろう。
勘違いしたムラサキは「ありがとう」と言って少しだけ泣いた。彼女は直ぐに涙を袖で拭いて、まるで何事もなかったかの様に突然立ち上がった。ムラサキの行動に戸惑いつつ、僕もゆっくりと立ち上がった。
「急にどうした?」僕はほとんど感覚が無くなっている自分の膝を手で払いながら言った。長時間の膝立ちと寒さのせいで、自分の膝が他人の膝の様に感じる。
「どうしたって?」ムラサキはランドセルを背負った。「これから帰るのよ。それしかないじゃない。さっきも言ったけど、私の帰る場所は一つしかないのよ」
「大丈夫なんか?」
「大丈夫よ」
ムラサキの心が凪いでいるのか泣いているのか、馬鹿な僕には解らない。今の彼女が先程とは打って変わって、とても冷静な表情を浮かべているのは確かだ。冷たくて静かな顔。荒れた後の静けさだと信じたいが、大荒れの前に訪れる静けさの可能性もあるだろう。
「帰る場所は一つじゃない筈や。もし家に帰りたくないなら、何かしらの方法はあるやろ」
「私が言っている帰る場所が一つしかないって意味は、そういうのじゃないわよ」
「どういう意味や?」
「上よ」ムラサキはそう言って空を指さした。それから彼女は少しだけ微笑み、空に向けていた指先を下に向けた。「もしくは、下ね」
僕は上と下を確認したが、特に何も見つからなかった。上には星や月は無いし、下にはコンクリートしかない。どちらも不快な深い灰色をしている。
「意味深な事いうなや」
「意味なんてないわよ。全く。深くも無ければ浅くも無い。だって意味なんて全く無いのだから」
「じゃあ、なんやねん?」
「私は信心深くは無いって事ね」ムラサキはそう言って出口へ歩き始めた。
ムラサキが放った言葉の意味は解らないし、何と返せばも解らないので、僕は黙って彼女に付いて行った。
「えっ」ムラサキはそう言って僕の方を振り向いた。「もしかして、大ちゃん帰っていなかったの?」
僕のエナメルバックが出入り口の扉に放置されていて、それは先程までのムラサキの様になっている。ぺしゃんこでよれた上に孤独なエナメルバックを、僕は雑な扱いで肩にかけて、平然を装いながら「今から帰るねん」と言った。帰って母に怒られる事を考えれば、少しだけ億劫な気分にもなるが、僕だって今は帰る場所が一つしかないのだ。
「早く帰らないと駄目じゃない」ムラサキは心配そうな顔を浮かべて言った。
ムラサキの顔を見て僕は何故か安心した。僕が笑いながら「こっちの台詞やわ。なんで立場が逆転しとるねん」と返すと、ムラサキも笑ってみせた。僕はこの笑顔が好きだ。口元だけで表現する感情ではなくて、顔全体を使って意図せずに現れてしまう表情こそが、ムラサキの魅力を最大限引き出す。
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