過呼

 僕が監視している間、ムラサキは三角座りをしたまま全く動かなかった。彼女は自分の膝に顔を埋めて、精巧な蝋人形のように固まっている。強い風が吹くたびに彼女の艶やかな髪が靡き、時間だけは固まらずに動いていると僕に伝えた。そんなムラサキを見ていると、僕はどんどん不安になってくる。


 僕がムラサキの側を離れてから30分くらいが経過し、普段なら晩御飯を食べている時間だ。これ以上ここに居て帰らなければ、母が何処かの誰かに電話をするかもしれない。学校然り、あっくんの家然り、もしかすると警察に電話する可能性もあるだろう。


 一度家に帰ってから出直そうと思っていた矢先、ムラサキがゆっくりと動き出した。彼女は側に置いてあった本をランドセルに入れたので、ようやく帰る決心をしたのだと安心したが、どうやらそれは勘違いらしい。ムラサキはランドセルから筆箱を取り出したのだ。


 筆箱の中に入っているハサミを手にして、ムラサキはその場で自分の長い髪を切り始めた。あまりに唐突な出来事に僕は頭が真っ白になったが、止めた方がいいと判断し、全力で走ってムラサキの元へと向かった。


 とりあえず僕はムラサキが手にしていたハサミを取り上げたが、もしかすると余計な事をしたのではないかと今になって後悔した。


「大丈夫かいな?」僕は奪い取った紫色のハサミを見ながら言った。ムラサキの顔を見るのが怖いのだ。ムラサキが泣いているのは一瞬で解ったし、そんな彼女を直視するのは憚られた。いつも笑っているか怒っているムラサキも、本気で泣いたりするのだと、馬鹿な僕は今になって気付いたのだ。


 ムラサキは何も言わずに泣き続け、目元を乱暴に袖で何度も擦った。暗闇でも解るくらいにデニムの袖は涙で変色し、僕は何も出来ずに突っ立ていた。すると彼女は次第に過呼吸をはじめ、突然の出来事に僕は混乱した。


 パニックに陥った僕は「救急車」という単語だけを言って、誰かに助けて貰う為に動き出そうとしたが、ムラサキは僕の手首を掴んで阻止した。ムラサキが僕の手首を握っている間も、彼女は苦しそうに過呼吸を繰り返している。このまま彼女は呼吸が出来なくなって死んでしまうと思い、僕は彼女の手を振り解こうとした。


 ムラサキは大きく息を吸って吐いてを繰り返す合間に、短く「大丈夫」とだけ言った。僕にはムラサキが放った言葉の意味が理解できなかった。どう見ても大丈夫ではないのだ。


 全力疾走した後の大型犬みたいな呼吸をするムラサキは、短く「ほんとに」と言った。本当に大丈夫ではないだろう。


「誰か呼んでくるから待ってて」と僕は言ったが、ムラサキは握力を強めて頭を大きく左右に振った。彼女の中途半端に短くなった髪が揺れ、切り落ち損ねた髪は風によって舞い散った。


 立ち上がったムラサキは両手で僕の手首を掴んで離さないので、僕はとうとう彼女の顔を見てしまった。赤くなった目からは涙が滲み漏れるように垂れて、僕と目が合うとムラサキは直ぐに顔を地面に向けた。


 とりあえず僕はムラサキをその場で座らせて、彼女の背中をゆっくりとさすった。僕の手が冷たいのかムラサキの背中が冷えているのかは判然としないが、熱を全く感じることが出来なかった。熱のかわりに震えを感じたが、その震えも僕の手が震えているのかムラサキが震えているのかは解らない。


 ムラサキの荒い呼吸は少しだけ収まり初めたが、それでもしゃくり上げて泣いている。彼女の過呼吸が収まり始めると同時に、僕はとても冷静になっていった。現状をどうすべきだとか、これから何をすればいいのだとか、ただ解っているのは失敗できないという事だけだ。接し方や対応を間違う事は許されないだろう。


 僕はムラサキの不安定さを知ってしまったし、彼女だってこんな姿を見られたくはなかった筈だ。


 過呼吸が治って暫くすると、ムラサキは「私が女だからなの……」と泣きながら言った。ムラサキは顔を真下に向けているので表情は見えないが、その声は震えているし、今となっては彼女の泣いている顔なんて容易に想像できる。


 膝立ちの僕は座っているムラサキの背中に左手を置いたままだ。背中をさするのは止めたが、かといって手をどかす事は出来なかった。右手で握っていたハサミをポケットにしまったせいで、少しだけ手持ち無沙汰な気がしたが、ここでムラサキを抱き締めるなんて事は出来ない。ハサミの代わりにハンケチでも取り出して、ムラサキの涙を拭いてやりたいが、僕にそんな粋な事は出来ないし、そもそもハンケチなんて持っていない。


「女なのが悪いの……」とムラサキは続けた。彼女に何があったのかは解らないし、僕が何と返すべきかも解らなかった。返答をするとそこには正解か不正解が生じるので、僕は少しの間だけ黙ってしまった。


「何かあったのか?」と聞いて物語を進めるべきなのか、「大丈夫か?」と聞いて物語を留めるべきなのか、馬鹿な僕には解らない。何かあったのは解っているし、大丈夫ではない事も解っている。ムラサキにはもっと他の言葉が必要なのだ。

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