不離
灯油の移動販売車が雪やこんこを鳴らしながら北川住宅を徘徊している。その優しくてやかましい音は、僕に「幸せ」という文字を連想させる。物理的に温かい家と精神的に温かい家族が、こんな寒い世界にも存在するのだと再認識させられる。雪やこんこは僕をホームシックに陥らせるのだ。
「そろそろ帰ろか」
「私はまだいいや」
「なんかすることあんの?」
「本の続きが気になるから、それを読むだけよ」
ムラサキはそう言って、近くに置いてあるランドセルを開けた。さっきまで読んでいたヘミングウェイの本を仕舞い、代わりに他の本を取り出した。何の本かは判然としないが、僕がこんなにも大きな本を読み終えるには、きっと一生をかけても不可能だ。
「もう暗なっとる。本なんか読めるかいな」
太陽もすっかり沈んでしまい、夜の帳が下りきっている。そろそろ帰らないと母から小言を言われるだろう。
「問題ないわ。私は目が良いから」
僕は少しだけ苛立ちを覚えて、「頭は悪いみたいやけどな」と返した。ムラサキから胸ぐらを掴まれるくらいの覚悟を持って言ったのだが、そんな心配も杞憂に終わり、彼女は僕を睨みつけるだけだった。
「こんな暗くて寒い所で本なんか読まんでも、帰って読んだらええやん。それともあれか? 家の場所を忘れたんなら送ったんで?」
ムラサキの変貌を見ていると僕はどんどん不安になり、ついつい攻撃的になってしまった。今となっては彼女が僕の顔面を殴りつけるくらいの事をしないと安心は出来ないだろう。
「大丈夫」ムラサキは微笑んだ。その笑顔は僕を感情的にさせる。「私の事は放っておいて、大ちゃんは気を付けて帰ってね」
ムラサキの頑固な所は変わっていないようだ。彼女の意見を変える事は出来ないだろうし、僕が彼女を置いて帰る事も出来そうにない。そして、僕だってどちらかといえば頑固な人間だ。
「子供のふりをするのはやめて頂戴よ。私だってちゃんと答えたんだからぁ」僕はムラサキがさっき言っていた事と同じ文言を口にした。僕なりにムラサキの声色を真似たつもりだし、そこそこ似ていると自負している。ムラサキの大人びた対応と顔をやめさせるには充分の筈だ。
「さっきから喧嘩を売ってきて、一体どういうつもりよ?」ムラサキは眉間に皺と僕に顔を寄せて睨む。近付いたムラサキからはコインランドリーのような匂いがした。人間に清潔を連想させるシャボンの香りは、ケミカルな刺激を僕に与える。
「子供のふりをするのはやめようってことや」
「別にふりなんてしてないし。なんなら私は子供よ」
言いたいことや感情を隠すのが子供で、言いたいことを言って感情を隠さないのが大人。あながち間違ってない気もするが、いま僕が言いたい事はそれではない。
「じゃあ、大人のふりするのはやめろや」
「何のふりもしてないわ」
「じゃあ、知らんふりするのをやめろ。僕が言いたい事は解ってるんやろ?」
「解らないわよ」ムラサキはそう言って僕から視線をそらせて空を嘯いた。
「本を読むとか訳わからん子供っぽい嘘を吐いといて、反応だけは大人ぶるなって事や」僕はムラサキの合わない目を見て言った。「そら、僕はかしこやないから理由までは解らへんけど、ムラサキが家に帰りたくないって事ぐらい解っとるつもりや」
僕は解らない癖に解ったふりをする子供でもないし、解っているのに解らないふりをする大人でもない。知らないのに知っているふりをする大人でもないし、知っているのに知らないふりをする子供でもない。大人も子供も対して変わらない気がするが、僕が大人でも子供でもないのは確かだ。
ムラサキは申し訳なさそうに僕へと視線を戻し、大人びた笑顔を作った。僕はこの笑顔が嫌いだ。こんなにも僕を苛立たせる笑顔を浮かべるムラサキに対して、期待もしていないのに失望した。こんなムラサキとは仲良く出来るとは思えない。
「そうね」ムラサキは深呼吸のような大きな溜息を零す。「大ちゃんの言う通り、確かに今は帰りたくないわ。でも、今はよ。そう今だけ。結局、帰る場所なんて一つしかないんだから」
「何があったのかは言えへんの?」
「言わないわ」
「言えないんやなくて、言わへんのか?」
ムラサキは何も言わずに僕の目を見つめ返した。目は口ほどに物を言うと聞いた事があるが、彼女の目は口では何も言わないと語っている。
正直に言うと僕はもうムラサキにうんざりしていた。女性がこういう生き物なのか、それとも大人がこういう生き物なのかは解らないが、間接的で抽象的な問答には懲り懲りだ。これ以上ムラサキと会話していると、僕はどんどんムキになって苛立ってしまうだろう。喧嘩も出来ない相手と喧嘩なんてしたくない。
「ほら」僕は右手に持った屋上の鍵をムラサキに見せつけた。「今日の戸締りと、明日の昼過ぎまでにはここを開けといてや。もしも、それまでに解錠してなかったら、行き場を失ったガキどもが暴動を起こすと思っといてもええくらいや」
ムラサキが鍵を受け取ろうとしたので、僕は右手を握って拳の中に隠して阻止した。僕の演技じみたセリフや行動は、きっと兄貴の影響を受けたせいだろう。
「ホンマにちゃんと帰るねんな?」
「勿論よ」
「もし、ホンマに帰りたくないんやったら、僕の家に泊まることも出来ると思うで? 何なら一緒に家出してもええで?」
「大丈夫だって」ムラサキは悲壮感を漂わせながら言った。
大丈夫と言う人間に限って大丈夫じゃないし、大丈夫と思った時は往々にして大丈夫ではないものだ。それでも、本人の意思を尊重しないのは僕の嫌いな大人のやり口だ。僕は不安を抱きながらもムラサキに鍵を渡した。
ムラサキはもう僕とあまり話をしたくなさそうなので、「じゃあ、また明日な」とだけ言ったが、彼女からの返事はなかった。
僕は空の弁当箱と筆箱しか入っていないエナメルバックを背負い、ムラサキを置いて立ち去るふりをしたが、もちろん帰路には着かなかった。ムラサキとの関係を不離に保つため、僕が多少は不利になっても構わない。
とどのつまり、僕は屋上の出入り口近くに隠れて、ムラサキが帰ろうとするまで見張ろうと思ったのだ。今さら帰っても母からは小言を言われるのは解っているし、それなら大ごとになる寸前に帰って、おもいきり叱られば良いだろう。
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