当然

「そんな事してたら、いつか落っこちてまうで」と僕はムラサキに話しかけた。


 ムラサキは屋上の縁から宙にぶら下げていた足をしまって座り直し、ヘミングウェイの本を閉じてから僕を見た。


「ここから落ちたらどうなるかな?」

「風に乗って遠くへ行けるんとちゃう?」

「大ちゃんは詩的で素敵ね」


 ムラサキは僕から視線を逸らして、どこか遠くを見つめた。喜怒哀楽がすぐ顔に出るいつものムラサキはそこに居ない。今日の彼女からは感情を読み取るのは難しい。表情が無いというよりは、複雑すぎて読み取れないのだ。


「もう、鍵を閉めたいんやけど」


 ムラサキは僕の言葉を無視して、太陽がほとんど沈んだ暗い空を見ていた。団地の街灯は既に灯り、もう夜なのだと世間に訴えている。大阪外環状線の方からは暴走族のコールが聞こえ、それに呼応するかのように鳥の群れが鳴きながら移動している。今日は金曜ロードショーに打って付けの日だ。


 僕を無視して黙ったままのムラサキは、何かを考えて黙っているようにも見えるし、何も考えずに黙っているようにも見えた。


 暫くしてから「ねぇ」とムラサキは情けない声で呟いた。彼女らしくない情けない声質は、僕をとても不安にさせる。「ここの鍵を貸して頂戴よ。私、まだ帰らないからさ。ちゃんと戸締りはしておくし、大ちゃんは先に帰って」


 僕はムラサキの横に座って、彼女と同じ方向を見た。そこには暗くなってきた空と、そんな空よりも黒い二上山が見えるだけだ。帰って民放を見ている方が幾分かは楽しいだろう。


 何も返さずに黙っている僕に、ムラサキは「帰らないの?」と言った。


「こっちのセリフやで。まぁ、ムラサキが帰るまでは付き合うわ」


「いいから」ムラサキは僕の顔を見て言った。「大ちゃんはもう帰って頂戴。ちゃんと戸締りはするし、鍵だって明日の朝には返すわ。だから大丈夫」


「なんやねん」僕は座ったまま腰を据えて、帰らない意思を行動で見せた。「ちょっとくらい一緒に話そうや」


「何を話すのよ?」

「政治経済について」


 ムラサキは少しだけ笑った。いつものような無邪気な笑みではなく、大人が浮かべる嘘くさい笑みだったが、魅力を感じさせない笑顔でも少しだけ安堵した。作り笑いができるくらい余裕はあるらしい。もしかすると、作り笑いを浮かべるのが精一杯なくらい余裕が無いのかもしれないが、どうやら僕は楽観的な性格の持ち主らしい。


「大ちゃんは今の総理大臣が誰か知っているの?」

「当たり前や。小泉内閣やがな」


「ダメダメね」ムラサキは首を振りながら眉毛を上にあげた。「今は安倍晋三さんよ。どうやら大ちゃんとは政治経済の話は出来ない見たいね。もっと、他の話はないの?」


「ほんなら」僕はムラサキに最近何かあったのかと聞きたかったが、何かあるだろうと確信に変わった今では、なかなか聞き出せそうにない。もう少し間合いを図るべきだろう。「ムラサキは将来の夢とかあんの?」


「小説家になるわ」とムラサキは当然のように断言した。きっと、こういう人間が夢を叶える事が出来るのだろう。


「どんなんを書くん?」

「具体的な物事を抽象的に描いて、抽象的な物事を具体的に描くの。意味のある事の意味を無くして、意味の無い事に意味を持たす、そんな書き方が出来れば素敵ね」


 僕にはムラサキが言っている事の意味がわからなかった。大冒険の話だとか青春の話だとか、そういった内容を教えて欲しかったのだが、まるでなぞなぞのような返答が帰ってきた。僕には理解出来ない類のものだ。


「味の濃いカレーに水を足して、味のない水にカレーのルーを足すとかそんなんか?」

「味の濃いカレーを忘れさせて、味のない水を忘れさせない。そんな感じかしらね」

「火のない所の煙を描いて、火のある所の煙を描かない。そんな感じやな?」

「惜しいけど、ちょっとだけ違うわね。それじゃあ安易すぎるの。けど、私は大衆を切り捨てた芸術を表現したい訳じゃないわ」

「僕には難しくて何を言うてんのか解らんけど、まぁムラサキならなんだって成れるわな」

「同意見だわ」


 いくら風の子と言えども、風邪を引いてしまうのではないかと不安になる程の風が吹き、僕は垂れてきそうな鼻を啜った。ムラサキは目を細めながら突風に耐え、彼女の艶やかな長髪は大仰に靡いていた。


 そろそろ帰らないと母も心配するかもしれない。


「大ちゃんの夢は?」

「海賊王か火影」

「子供のふりをするのはやめて頂戴よ。私だってちゃんと答えたんだから」


 僕は知らず知らずの内に子供のふりをしていたらしい。


「夢が無いねん。昔から夢なんか持った事ない。したくない事はいっぱいあるけど、したい事なんか見つからん。出来ることも解らんし」

「出来る事をするのは当然で、夢とは違うんじゃない?」


 当然の事が出来ない人間が居るのを僕は知っているし、その情けない人間が自分だという事も判りつつある。当たり前が出来ない人間が存在するのも当たり前なのだ。


 この漢字は誰でも書けるし、この計算は誰でも出来る。宿題を忘れないのは当然で、月曜日から金曜日まで学校へ通うのは当たり前。そういった皆が出来る事を、僕は当然のように出来ないのだ。


「じゃあ、当然の事が出来るようになるのが夢やな。人並みに生きるとか?」


「何よそれ」ムラサキは僕を睨みつけた。彼女は何故か怒っているらしい。「大ちゃんはとても素敵な人間なのだから、そんな勿体ない事を言わないでよね。きっと、大ちゃんも素敵な夢を見つける筈よ」


 一般的には夢を見つけるのが良しとされているが、大人が子供に見て欲しい夢は、公務員だとか良い大学へ行くとか、そういう都合の良いことだと僕は知っている。それ以外の夢を持つと周りから馬鹿にされる事も知っているのだ。僕くらいの子供は、いち早く大人にならないといけない。僕だっていつかは気持ちの良い言葉ばかりを並べる気持ちの悪い集団の一員になるのだ。


「夢を持つのが夢やなぁ」と僕が呟くと、ムラサキは「大ちゃんなら絶対に素敵な夢が見つかるわ」と言って僕を見つめた。


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