兄貴との約束

 お気に入りの腕時計が小さなアラーム音を鳴らし、僕は誰にも気付かれないよう直ぐ音を止めた。枕の下に腕時計がある事はあらかじめ解っていたし、このアラームが鳴ったという事は時刻が丑三つ時だというのも理解している。


 僕が目を覚まして最初に気付いたことは、まだ兄貴が起きているという事実だった。僕の兄貴はブラウン管のテレビを覆うように布団を被せ、自分もその中に入ってゲームをしている。兄貴は部屋の外に光が漏れないようにゲームをしているのだ。部屋の外には光が漏れなくても、この子供部屋の中には充分すぎるくらい光が漏れていた。テレビを見るときは部屋を明るくして離れて見なければならないのだが、そのたった2つの事ですら守れないのが兄貴という人間だ。


 僕がアラームを止めたと同時に、兄貴はテレビの電源を落として、覆われている布団の中から出てきた。


「おい、ダイ」と兄貴は静かに言った。兄貴は僕の事を大ちゃんではなく、何故かダイと呼ぶ。きっと、ちゃんを付けるのが面倒なのだろう。「オッサンにいらんこと言うつもりやったら殺すぞ」


 僕は兄貴に何度か殺されかけた過去があるし、正直に言えば兄貴に逆らおうだなんて考えた事もない。

 どうやら兄貴はゲームしていたのを父親にバラされるのを心配しているらしい。


「別に何も言わんよ」

「嘘つけや。殺すぞ」

「嘘やない」

「じゃあ、なんでこんな時間にわざわざ起きたんや?」

「ちょっと、今から出かけるねん」

「ダイは時計も読まれへんくらいアホなんか?」


 僕は兄貴を無視して床に敷かれた布団から起き上がり、自分の勉強机に向かった。目はまだ闇に馴染んでいなかったが、いつもの慣れた部屋なら問題ない。


「それとも、こんな時間に悪さするくらいアホなんか?」と兄貴は言葉を続ける。


「アホやない」

「いや、ダイはアホや。大馬鹿や。認めやな殺すで」


 ちょっかいをかけてくる兄貴を無視しながら、僕はあらかじめ用意をしていた肩掛け鞄を机に乗せ、中にちゃんと荷物が揃っているか最終確認をした。


 鞄の中にはバッドボーイのマジックテープで開けるタイプの財布、ポケモンシールが乱雑に貼られた水筒、ショップ99で買った懐中電灯が入っている。他にも何かを用意した方がいいのかもしれないが、僕にはこれ以上必要な物が思い付かない。


「怖い話したろか?」と兄貴は言った。僕を怖がらせようとしているのだろうが、オバケを怖がる年齢は既に過ぎている。


 僕は兄貴を無視しながらパジャマを脱ぎ、青いパーカーに着替え始めた。


「あかん、あかん。それじゃあかんでダイ」


 準備をしているのに横から何かを言ってくる兄貴を煩わしく思い、僕は「何が?」と少しだけ大きな声で返した。


 兄貴は「シー」と言って自分の口元に左手人差し指をかざし、右手の拳で僕の足を本気で殴った。僕は殴られた箇所と声を押さえて蹲り、痛みと怒りで震えながら悶えた。


「大きい声出すな。殺すぞ。オッサンが起きたらどないすんねん」


 理不尽な暴力を行使する兄貴に対して殺意を抱く。僕は兄貴によって理不尽というものを常日頃から教わっているので、この世の中に存在する理不尽にはある程度の耐性がついているだろう。


「ほら」兄貴は僕に向かって真っ黒の服を投げつけた。「この時間はダイが考えてるよりも寒いねんから。それに、そんな青い服着たら目立つがな。ダイがどこ行くんか知らんけど、誰にも見られたないからこんな時間なんやろ?」


 僕は兄貴から借りた少し大きな真っ黒のジャージと、真っ黒のニット帽に着替えた。


「ライトはあるんか?」


 僕は鞄から懐中電灯を取り出して兄貴に見せた。兄貴はそれを何度かつけ、照度を確認して満足そうに頷いた。


「替えの電池も持ってけよ」

「解ってる」と僕は当然のように返したが、心の中では成る程と感心した。


 兄貴は自分の机の引き出しを何個か開けて、2段目の引き出しからサバイバルナイフを取り出した。ナイフの柄には緑色と黒の紐が巻かれていて、刃の部分は硬い布のケースに収められている。兄貴はケースからサバイバルナイフを取り出し、銀色の輝きを確認してから僕を見た。


「これを持って行っとけ」

「いや、そんな危ないのいらん」

「お守りみたいなもんやがな。なんも、これで人をぶっ刺せ言うとんとちゃうで。せやけど、いざという時はこういうのが頼りになるねん」


 兄貴が僕に向ける目は、ナイフよりも鋭くてギラついている。きっと、兄貴は何かを勘違いしているのだ。


 僕は誰かを倒して山へ埋める為にこんな深夜に起きたのではなくて、起き上がるナニの欲を埋める宝を掘り起こしに行く為にコソコソと起きたのだ。とどのつまり、二上山に在るポルノ本自動販売機へ行くだけだ。


「いや、ホンマにそんなんいらんねん」

「ほなら」と兄貴は言って、机についている一番下のでかい引き出しからレトロなオイルランタンを取り出した。兄貴はランタンが点くかの確認をしてから、僕の肩掛け鞄にカラビナでくっつけた。


「これ、借りてもええの?」

「3つ条件がある」


 兄貴は右手の小指と薬指と中指を立てて、それを僕に向けた。


「1つ目は、絶対にランタンを壊すな」兄貴はそう言って、立てていた中指を折り曲げた。残りは薬指と小指だ。「ほんで2つ目、もしなんかあったとき、俺にだけには絶対に隠すな。ダイはアホやから隠して良い物事と、隠したらあかん物事の見極めが出来ひんやろ」


 兄貴の薬指は折りたたまれ、残った小指を僕の顔の目の前にまで持ってきた。


「そして最後に」と兄貴は言って暗闇の中でも解るくらいの笑みを浮かべた。「朝飯の時間までには帰ってこい。それまでなら俺がなんとかしてオカンに言い訳出来るやろうから」


 いつもは性格が悪い兄貴だが、こういう時だけ頼りになる。僕はそんな兄貴を少しだけ尊敬している。


「ありがとう」と僕が返しても、兄貴は立てた小指は折り畳まず、僕の顔に向け続けた。


「約束や」とだけ兄貴は言って、更に小指を僕の顔に突きつける。


 ようやく小指の意味を理解した僕は、兄貴と指切りげんまんをした。




§~○☞☆★†◇●◇†★☆☜○~§




 僕の兄貴も今ではバツイチのオッサンで、最後に会ったのは3年以上前だ。兄貴の連絡先も知らないし何処に住んでいるのかも判然としない。会いたいとも思わないし、話す事だって何もない。昔は一緒にゲームをしたりもした気がするが、そんなに楽しかった記憶はない。僕と兄貴は仲が良いとは言えないし、決して仲が悪いという訳でもないのだ。


 本物の兄弟なんてそういうものだろ?


 昔は偉そうにしていた兄貴も、今では養育費を払うために必死のオッサンだ。

 兄貴の口癖だった「殺すぞ」はもう聞けない。

 きっと兄貴は自分を殺して生きているだろう。


 僕だって利口な弟では無くなった。


 テレビがどんどん薄くなっていったように、僕たち兄弟の絆もどんどん薄くなっていった。今ではもう、テレビなんて見もしない。



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