伝説の笑い本を手に入れろ

レモン石鹸

 図書室の近くに在る人気の無いトイレで、僕は一人で用を足していた。


 勿論、小の方だ。


 学校で大の方なんかすれば、社会的地位が一瞬にして崩れ落ち、小学校を卒業する間、あだ名は「うんこマン」になること請け合いだ。


 小だけなら大の代償は払わなくて済む。


 大は朝の内に家で済ませておくのが、小学生にとって一番の宿題と言えるだろう。宿題と大は家に持ち帰ってする物なのだ。



 僕がわざわざ人の少ないトイレを利用する理由は、後ろに誰か立たれたく無いからだ。僕はとても繊細な人間なので、どれだけ勢いよく小便を放っていようと、後ろに誰かが立ってプレッシャーを放たれた時点で、膀胱は尿を絶ってしまう。


 残尿感を覚えたまま4時間目の授業を受ける訳にはいかないので、わざわざ遠くにあるトイレを選んだのだ。



 僕が小便を便器の真ん中に貼られたシールに向かって放っていると、他のクラスの奴がトイレに入ってきた。確かヤーさんと同じクラスの奴だったと思うけど、彼の名前は全く解らないし喋った事もない。


 僕は無言で小便を終えて手を入念に洗った。


 僕は手を洗うのが好きだ。

 今日みたいな少し暑い日は、蛇口にぶら下がったレモン石鹸をふんだんに使い、いっぱい泡立ててしっかりと水で洗い流す。


 僕が水道水とレモン石鹸を無駄遣いしながら、ゆっくりと手を洗っている間に、後からトイレに来た彼は小便を終えて僕の隣で軽く手を洗った。


「やぁ」と彼は言った。


 彼はポケットからハンカチを取り出して手を拭きながら、鏡越しで僕の顔を見ていた。彼のとっても上品な言動に僕は嫌悪感を抱いた。


 僕はしっかりと手に付いた泡を洗い落とし、鏡に向かって濡れた手を指揮者の様に振った。


 これを一石二鳥というのだろう。


 鏡に映った上品な彼を汚す事も出来たし、ハンカチなんて持ち歩いていない僕の手も乾いた。それに、僕は彼に様なんて無いという意思表示も出来た。


「君が俺を良く思っていないのは解ったんだけど、少し俺と話す気はないか?」と彼が言ったので、僕は濡れた鏡を見るのをやめて彼を見た。彼は上品なハンカチを、上品な動きで上品なズボンのポケットに仕舞っている最中だった。紳士と呼ばれるような人間の動きだ。


「なんやねんな?」

「不機嫌な君にでも、いささか興味を持つ物を見せてあげようか?」


 僕には「いささか」っていう意味が解らなかったけど、彼が僕を馬鹿にしているって訳じゃないのは何となく解った。


 彼はハンカチを仕舞った逆のポケットから、一枚の紙切れを僕に渡した。何も言わずに受け取って確認すると、その紙切れは何かの雑誌の切り抜きだった。


「これをどこで……」と僕は小さく言った。もしかすると、頭でそう思っただけで、言葉になっていなかったかもしれない。言葉が出たのか出ていないのか判然としないくらい、僕は強い衝撃を受けた。


 彼から受け取った雑誌の切れ端は手のひらサイズで、フルカラーで、綺麗くて、そしてエロかった。

 そこに写っているのは、スケスケのパンツだけを身に纏い、官能的で挑発的なポージングをしながら、大きく開脚した美女だった。



 これまでに河川敷などでエロ本を見つけた事もあったが、どれも雨風に曝されて汚かった。この切れ端はとても綺麗に女性が写っている。それに、こんなにも局部が明瞭に写っているのは未だかつて見た事がない。モザイク処理されていない局部を見るのは初めてだった。


「少しは興味が湧いてきたかい?」

「なかなかイカついやんけ」

「それは、君に差し上げるよ」


 僕はこの紙切れを喉から手が出るほど欲したが、こんなにも上手い話がある筈が無い。


「何が目的やねん?」と僕はきつく言った。彼は微笑みを崩さぬまま僕を見つめている。真昼からニヒルに笑う奴を信用するほど、僕は純粋な人間じゃあない。


 彼はもう一度ポケットを探り始め、中から新しい紙切れを取り出した。きっと彼の不思議なポケットには、大量の紙切れが入っているのだろう。僕が彼のポケットを叩くか迷っていると、彼は新しく出した紙切れを僕に差し出した。


 僕はもう一度紙切れを受け取り、二つ折りにされた紙を開いた。その紙は先程のような刺激的なものでは無かった。新しく渡された紙は、一太郎スマイルを使って作られた、手作りのチラシみたいだった。


「金曜日の放課後、新たなるエロ本を追求する会を開く。小体育館裏にて集まれり」と僕は紙に書いてあった文字を読み上げた。


 僕が紙から顔を上げた時には、彼は姿を消していた。最初から誰も居なかったかのようにトイレは静まり返り、僕がさっき読み上げた言葉だけが余韻を残して空気中を漂っていた。


 まるでマジックだ。

 デビッド・カッパーフィールドが如く、彼は音もなく消えた。


 幻覚か夢でも見ていたのかと思ったが、彼がくれた2枚の紙切れは確かに手に残っていた。僕はもう一度エロ本の切れ端を眺め、鼻を近づけて匂いを嗅いだ。


 僕は汚い物の匂いを嗅ぐ癖があるし、汚いかどうかを匂いで確認する癖もある。


 その切れ端は何の匂いもしなかったが、僕の手からはレモン石鹸の香りがした。




§〜○☞☆★†◇●◇†★☆☜○〜§




 当時の僕は女体に人一倍興味があったし、今の僕は女体に人三倍は興味がある。当時は女性の体について、子供ながらに触れてはいけない物だと思っていたのだが、大人になった今では女性の体に触れたくて仕方がない。


 子供だった僕は性的欲求や卑猥な目線で女性を知りたかったというより、学術的探究心や知的好奇心で女性の体に興味があったんだ。エロを追求する変態的な嗜好ではなく、未知を求める考古学者と同じ思考だ。だけど、当時はパソコンやスマホが一人一台持てる時代では無かったし、無修正のエロ本が規制されていない時代でも無かった。オフィスじゃなくて一太郎が普及されていた時代なんだよ。


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