白丘尼乃彩の航海日記

 跳ねる飛沫。

 照りつける太陽。

 海鳥たちの愛らしい鳴き声。



 そう。今日は、絶好の航海日和!



 意気揚々と、僕——白丘尼乃彩しらくにのあは自前の船に乗り込んで、自由気ままな船の旅を開始する。


「今日はどこまで行こうかな」

 そう呟いて、僕は海図を広げる。ここ200年くらい太平洋をうろうろしていたから、今度は大西洋にでも行こうかな。

 大西洋は400年くらい前に行ったけれど、変わりないだろうか?…そう考えると、非常に気になってきた。


 そうと決まれば舵を切る。

 乗組員は僕一人。なんとも気ままな海の旅。

 昔は数名仲の良い子が乗っていたけれど、彼らはもう何処にも居ない。そういえば、大昔に自分の操縦する船に、姉と兄を乗せたいな、なんて思っていた事を思い出す。その願いは終ぞ叶わなかったな。


 感傷を海風に流しながら、誰もいない大海原を帆走はしる。日本から大西洋は相当遠い。太平洋の無人島拠点に居れば良かったなと少しだけ後悔する。


 何か変な事が起こらなければいいな。例えば突然の嵐とか。

 海の天気は変わりやすい。僕を置き去りに、どんどんと移り変わっていく人々の暮らしくらい変わりやすい。…いや、花の一生で例えた方が分かりやすいような気がする。


 地平線を見つめながら、そんな事を考える。


 波の音や海鳥たちの声に合わせて、鼻歌を響かせる。遠い昔、いつか何処かで聞いた歌。名前の知らない曲。

 旋律は風に飛ばされて、音は海が吸い込んでいく。


 やっぱり、航海は楽しい。

 何もないから、この旅は楽しいのだ。




 そうして、何時間、何日、経ったのだろうか?


 海の景色は変わらない。

 いつも通りの海。



 でも、一つだけ違うことがある。



 何処からか、歌が聞こえる。

 美しい声が響く。

 フランス語の、美しい旋律。

 知っているような、知らないような曲。


 空は晴れている。

 海の怪物は歌がうまいと聞いていたけれど、まさか本当に存在するのか。てっきり、みんな嵐とか風とかで転覆しているのだとばかり。


 …この歌を聞いてはならない。

 そんな気がする。僕の良く当たる直感が、そう言っている。

 だけど、手を止めてしまう。舵から手を離してしまう。引き寄せられるように甲板に出てしまう。

 歌が近づく。空に歌姫が見える。もっと歌が聞きたくなる。


 …あ、これ、ダメなやつだ。

 僕の良く当たる直感が諦めた。

 手を伸ばしても、その歌姫には届きそうにない。このままだと海に落ちる。

 海は好きだけど、苦しいのは嫌だな。そう思いながら、本能に焼き付くような歌に抗えず、僕は冷たい水へ落ちた。



 最後に見えた歌姫は、鳥のような姿をしていた。






 ・

 ・

 ・




「ぷはっ!!」


 海から顔を出す。耳に水が入った気がするが、まあどうでもいいことだろう。

 まさか普段何の役にも立たない、自分の水を操る能力が、ここで生きるとは思わなかった。直接浮力を操る事は出来ないようだから、今は下に向かって水を発射させてなんとか顔だけは出している。着物が水を吸ってしまっていて、顔以外は海から出れなそうだ。とても重い。

 下に水着を着ているが、兄と姉に貰った着物を捨てるのは流石に気が引ける。あと、能力があるといって油断は禁物だ。どちらにせよ、服を脱ぐ行為によって体力を使うのは悪手と言える。



 さっきの鳥が僕を見下ろす。彼女は僕の船の手摺りに、器用に立っている。…乗船料せびろうかな。


「…やあ。僕に何の用かな?」

「……なんで生きてるの」

「なんでって言われても…」

「あとなんで最後まで聞かずに落ちるのよ」

「いや、それは知らないかな…」


 それってそういう仕様なんじゃないのか。

 また一つ賢くなった。


「で、なんで生きてるのよ。私の歌を聞いた者はみーんな溺れ死ぬんだけど?」

「そう言われても…僕、能力者だし。水を操る。それに、何されても死なないから」

「…え?『何されても死なない』??は?」


 そう。僕は死ねない。

 遠い昔に兄が土産として持ち帰った、何かの肉。食べない方がいい、なんて苦い顔をする兄の言葉を聞かず、幼き日の僕は、つい食欲に負けてそれを食べてしまった。

 それは、(後に知った事なのだが)『人魚』の肉だったのだ。

 人魚の肉には、人を不死身にする力がある。


「えー…なにそれ反則じゃない…」


 ブーブー、と子供のように、彼女は頬を膨らませる。…反則とは?


「はぁ…まあいいわ。貴女なら私の歌を最後まで聞いてくれそうだし。海で死なないなら別の方法を考えるわ」

「えぇ…どうしても僕を殺したいのか…」

「もちろんよ。だって初めてだもの!私の歌を最後まで聞いてくれそうな人!」

「そこなの…?」

「ええ!」


 嬉々とした表情で、彼女は翼を広げ、滑空する。僕の元へ近づいてくる。

 何のつもりだろう?と首を傾げていると、何かに肩を掴まれた。どうやら、彼女が人間のように見えるのは顔と胴だけのようで、ドレスに隠れていた足は、海鳥のそれと同じものらしい。

 彼女に持ち上げられ宙を浮きながら、僕は「まるでミサゴのようだな」とぼんやり考えた。


「…貴女重くない?」

「……服が水吸ってるだけじゃないかな」

「そう…」




 §




「よい、しょ…と。はい、着いたわよ。服、ちゃんと絞っときなさいな」

「…あり、がと」


 思ったよりも優しく甲板に降ろされ、少し拍子抜けした。海の怪物って言うもんだから、もう少し雑に扱われるかと思っていたのに。

 彼女に言われるまま、一応まず着たまま絞れるところは絞って、それから服を脱いで、また絞る。

 その様子を彼女は、唖然という言葉を的確に表したかのような顔で見つめているようだった。


「…貴女、一つも恥じらわないのね」

「どうして?下に水着着てるし、君は女の人よね」

「そうだけど……うん、まあいいわ、どうでも。あ、そういえば、貴女なんていうの?名前」

「ん、ああ。僕は白丘尼乃彩。君は?」

「ノア、いい名前ね。私はネリー。ネリー・シレーヌって言うわ。これからよろしく」

「うん、よろしく。…って着いてくるの?」


 あらかた絞り終えた服を甲板の手摺りに置き、乾かす。今日も晴れ渡っているから、きっとすぐ乾いてしまうだろう。


「え?着いてこないとでも思ったの?」

「出来れば着いてきてほしくなかったかな」

「あら、残念だったわね。着いていくわよ、貴女を殺すまで」

「怖いなぁ…」

「そう言う割に、怖がってるように見えないんだけど?」

「まあ僕死ねないんで…」

「死ねない人間が居るかしら?絶対殺してあげるわ」

「…まあ、期待はしておくよ」


 然程期待はせず、僕はそのまま操縦席に向かう。海水に濡れた水着のままだけど、まあ日は出ているし、そこまで気にしなくてもいいだろう。寒くなればスペアとして持ってきた現代服でも着ればいい。…この現代服、水兵さんが着ているらしくて、僕は結構お気に入りだ。


「あら、もう出発するの?」

「早く船を動かしたくて」

「…そんなに船が好きなの?」

「うん。…君は、嫌い?」

「いいえ。好きよ、船」

「…なら良かった」


 彼女の『好き』の理由はたぶん違うところにあるんだろうな。

 でも、「船が好き」と言われて悪い気はしない。



「——じゃあ、出航するよ!」



 久しぶりの乗船者に向けて、久しぶりの号令をかける。

 心なしか、気分が跳ねているような気がする。


 人と話したのは何年ぶりなのだろう。…いや、彼女は人ではないけれど。

 なんだろう、このままどこまでも行けそうなくらい、テンションが上がっている。なんかおかしい。自分がおかしい。


 高鳴った気分のまま、僕は舵を切る。

 右へ左へ。気の赴くままに。

 広い世界を、自由に、冒険するように。


 僕らは、広い青を縦横無尽に駆け回った。




 ・

 ・

 ・



「ところで、僕の船に乗ったからには、君も乗組員だからね。はいこれモップ」

「えっ、なに、どゆこと」

「掃除だよ、掃除。甲板の。これくらいできるよね?」

「えっ、あっ、はい」

「返事はイエッサーだよ」

「イ、イエッサー…?」

「よし」

 よく分かってない顔のまま、彼女はモップで甲板を掃除し始めた。翼の腕では無理だからか、彼女は人間のような姿に変身した。

 それにしても、割と従順でびっくりしちゃったな。「なんで人間の指示受けなきゃいけないんですかー?」とか言ってくるような気がしてたのに。そして言われたら「乗船料せびるよ?」とか言おうかと思ってたのに。

 …拍子抜けする事が多いなぁ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る