月の兎の消えた日
【これは、とある神様の御伽噺。】
「姉さんの烏を、貸してほしい」
いきなり弟が、私の執務室を訪ねてきた。
普段なら支配区域が正反対なのも相まって、私の元を訪ねる事もゼロに等しいくらい無かったというのに。
「…どうしたのよ、いきなり」
私は、ちらっと彼の顔を見てすぐに手元の資料に目を落とし、ほとんど顔も見ずにそう言った。
しかし彼の次の言葉に、私は驚きすぎて顔を上げてしまった。
「玉兎が、逃げ出した」
目を丸くした。
玉兎というのは月の兎。
月の神ツクヨミの従える『神霊』にして、私の持つ金烏と同じ、月の化身や月の象徴とも言われる『神獣』。
それが逃げ出した、となると。
「いや、違う。逃げ出した、というより、行方不明」
「いやそれどっちにせよ変わんないわよ…とりあえずどういう状況なのか全部話して?」
そう言うと弟は、淡々とした口調で事情を説明し始めた。
私の持つ金烏と、弟の持つ玉兎は対の存在だ。
だけどそれは、属性だとか、従事する主人だとかが対というだけ。個体数や性質なんかは似たようなもの。
例を挙げるのなら、金烏にはリーダーが居て、その子だけ人型になるのが許されているのだが、玉兎もまた同じようなもので、リーダーの子だけが人型になるのを許されている。そんな感じだ。
…それで、今回の事件なのだけど。
彼が言うに、行方不明になっているのはそのリーダーの子。
リーダーが居ないから、いくら神でも多くいる兎たちの統率なんて取れず、途方に暮れているという。
更に付け加えると、さっき私が言った月の象徴やら月の化身と呼ばれている…つまり『玉兎=月である』という事もちゃんと理由としてあるのだろう。
簡潔に纏めると、月が危ない。
「——だから、僕は、地上に探しに行こうかなって」
「つまり、護衛が欲しいのね」
その言葉に、弟はこくりと頷く。
相変わらずの無表情さに調子を狂わされ、わしゃわしゃと自分の頭を掻く。
「…はぁ、分かったわよ。貸したげる。リーダー!」
「はっ、ここに」
ばさり、と一羽のカラスが私の隣に降り立った、と思えばすぐにその姿は人の形に変化した。
彼女(彼?)は、私のそばで跪いていた。
長い前髪で左目を隠し長めの髪を後ろで束ねた、男とも女とも言えない中性的なヒトガタ。金髪を黒髪に染め直したような髪色。八咫烏の三本足を表すように持つステッキ。…これが、金烏のリーダー。
そんな彼女(便宜上、女という事にしておく)に、私は一つの命令を下す。
「貴方に特別任務を課すわ、『
「はっ!」
威勢のいい返事だ。
彼女ならきっと、弟を守り抜いてくれるだろう。
「さあ、もう用は済んだでしょう?さっさと執務室から出て行って頂戴。私は仕事で忙しいんだから」
しっしと手で2人を追い払う。
それに従って、2人は全く同じ動作に全く同じ無表情でこの部屋から出て行った。
「わ、割といいコンビかもしれないわね…」
少し不安ではあるけれど。
あとは彼女に任せましょう。
*・゚ ✴︎ .゚ ・ * . ・゚ ✴︎ .゚ ・ *.
「弟様。一つ、よろしいでしょうか」
「?なんだろうか…」
天照様の執務室から離れた、夜と昼が交わる部屋・夕闇の間にて。
私は彼に言いたいことがあって、呼び止めた。
「もしかしたら玉兎は、現在神性を忘れているかもしれません」
「ほう?何故そう思う」
夜の闇を全て閉じ込めたような無機質な瞳で、彼は私の顔を覗き込む。
その眼差しに少し畏怖しながら、私は答える。
「…私も一度下界へ降りた時に、少しだけですが失い、神獣たる力の出力が落ちたのです。原因は明確です。人間の紡ぐ物語。あ、勿論私たちを参考にした登場人物がいなきゃ意味はないのですが」
「ふぅん。それって僕には影響しない?」
「うーん、どうなんでしょう…そこは分かりかねます。兎に角、私達のような神獣は特に、物語に強烈な『想い』があると引っ張られてしまうようでして」
「………ふむ」
顎に手を当てて、彼は夕闇の間をくるくるとゆっくり回り始めた。多分回避方法について思考されてるのだろう。
そして彼は、唐突にぴたっと足を止めた。
「…うん。なら、僕はきっと、神格が高いから。呑まれはしない…かな。うん」
「え、その事気にしてたんですか?!」
「重要な事だよ」
終始無表情な彼に調子を崩される。
少し天照様の気持ちがわかった気がする…
だが、まあ。
物語の強烈な念に呑まれないと分かって少しは上機嫌になったようで。
私は安堵の溜息を漏らすのだった。
——でもまさか、
*・゚ ✴︎ .゚ ・ * . ・゚ ✴︎ .゚ ・ *.
「…
執務室の窓から外を見る。
この窓は特別な物で、普段は曇っているが私が擦ると、
いわば簡易版天の浮橋だ。
普段は気にもかけない弟の事だったが、それでも気になるものは気になるのだ。
「うーん、あの子どこに居るのかしら…」
窓に食い入るように熱い視線を送る。この窓で見えない場所はないはずなのに。
弟は、何処にも見当たらない。
「まさか地上に降りるの失敗したとか?うーん、とりあえず叶烏に連絡しようかしら…」
叶烏の姿はすぐに見つかった。
だが、やはりそこに弟の姿は無く、叶烏も途方に暮れているようだ。
「……なにかトラブルかもしれないわね…」
私の勘がそう言っている。
弟に、ではなく、下の世界…人間界に。
何かとんでもない事が起こってる、或いは起ころうとしているのだとしたら。
黙って見ていられるほど、私は冷たくはない。
それに、弟の行方も確かめたいし。
「さてそうと決まれば早速叶烏とその辺り含めてコンタクトを取らなくちゃ!」
太陽神は急いで烏に連絡を入れた。
——さて月の神は、何処へ行ったのでしょう?
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