既知の夏の終わり
砂塔ろうか
既知の夏の終わり
その学園に時期外れの転校生がやってきたのは夏休みを目前に控えた七月十三日のことだった。
高く澄んだ空の下、小野寺花穂は出会う。学校の食堂、慣れない場所で困惑する少女。真新しい、ピカピカの白いブラウス着て、紺のスカートを履いた転校生――白羽晴良に。
その転校生が、彼女の大切なものを奪っていく存在だとはこの時、彼女は思いもしなかった。
白羽が転校してほどなくして、夏休みが訪れる。その頃にはもう、白羽はクラスの一員としてすっかり人気者になっていた。別クラスの花穂はそのコミュニケーション能力に驚嘆しつつも、穏やかな笑みさえ浮かべて、ことの次第を幼馴染から聞いていた。
けれどあとになって思い返してみれば、この時、もうすでに「奪われてしまっていたのかもしれない」と花穂は思う。暢気に話を聞いている場合ではなかったのかもしれないと、忠告を無視するべきではなかったのだと、後悔を滲ませて。
花穂には幼馴染がいる。向日葵という名の、同い年の女の子。その名のイメージに違わず、彼女は明るくて、真っ直ぐで、周囲もぱあっと明るくしてしまうような女の子だった。
引っ込み思案だった花穂が今、学園の人気者として振舞えているのも、向日葵がいたからにほかならない。彼女の穏やかなひだまりが、花穂を変えたのだ。
夏休みのことだった。
花穂は一人、当てもなく街を歩いていた。映画を見に行った帰りだった。電車の時間はまだ三十分以上もさきで、しかし暇を潰すアテもないので、適当にウインドウショッピングでもしていることにしたのだ。
「……あれ?」
向日葵を見かけた気がした。ショーウィンドウの写り込みに、彼女の姿を見たような、そんな気がして、いてもたってもいられずに花穂は振り返る。
いた。
不意の出会いに、声をかけたくなる。
「一緒に映画見ようって私の誘いを断わったのに、こんなところで何してるの?」
――なんて意地悪な質問をするつもりは、微塵もなかった。
けれど、そうはならなかった。
花穂が名前を呼ぶ。向日葵はこちらを向いて、驚いたような顔をする。
その隣には、
「……小野寺さん?」
あの女がいた。
「――っ、白羽、さん…………?」
白羽晴良はつばの広い帽子を被って、清楚な装いに身を包んでそこにいた。その姿に花穂は一瞬、見惚れてしまう。
ただ一緒にいた。
それだけならば、花穂は心の底からの笑顔で二人に接することができただろう。白羽のことを花穂は、嫌いではなかった。むしろ好いてさえいたのだから。
――そう。二人がぎゅっと、指を絡めて、深く手を繋いでさえいなければ、花穂は笑って帰ることができたのだ。
「白羽晴良に気をつけろ。彼女はあなたの大切なものを奪ってしまう」
花穂のSNSの、今はまったく使っていない裏アカウント。鍵のかかったそのアカウントから本アカウントへと送信されたダイレクトメッセージ(DM)には、そんな文言が綴られていた。
曰く、未来の自分からのDMであると言う。
受信当初、誰かのイタズラだと判断し、黙って裏アカウントのパスワードを変更した花穂はそのDMをちゃんと、読んでみることにした。それは花穂が白羽
そこには予言として、七月二十日から未来――本来の送信日時であるという八月三十一日の間に起こる出来事や実際の天気、そして白羽がどのようにして花穂から向日葵を奪っていくのかが記されていた。
「今日のことも書かれてる……」
はじめは半信半疑だった花穂だが、読み進めていくうちにやがて、そこに綴られた文章は紛れもなく自分自身によるものだと信じるようになっていった。
「……八月二十日。ラインの誤送信によって、向日葵が白羽の家に泊まりに行くことが判明する……か。そういえば、もう何年もお泊まりしてないな…………向日葵」
無性に幼馴染の名を呼んで、ぎゅっとベッドのシーツを握りしめる。いつもと変わらない、一人ぼっちのベッドが嫌なくらい広く感じられた。
時間に干渉して情報の送受信を行う超能力の存在が公表されたのは、ほんの数ヶ月前のことだった。
それで過去や未来を変えられるのかは判然としないところであったが、小野寺は変えられることを信じたいと願った。
しかし、一体どう変えるというのか。
すでに心は白羽のものとなっているのではあるまいか。とうに手遅れになっているのではないか。
胸が焦げるようだった。
考えれば考えるほど、苦しくて、先が見えなくなって、それでも花穂に諦めることはできそうもなかった。
「貴女、能力者ですね?」
向日葵を尾行していた時のことだった、突然、背後から声をかけられたのだ。
そこにいたのは常人離れした存在感を有す、一人の女性だった。一言で表すならば、さながら天女のような。
「我々は、貴女のような人の力を借りたいと思ってます。ご協力、願えますか?」
少し発音にクセのある日本語を話す女性に、花穂は苛立ちを隠すことなく言った。
「今は忙しいのですが」
「お望みならば、尾行を手伝いますよ?」
「何のために?」
「我々のために」
「……どう手伝ってくれるんですか?」
花穂が言うと、女性は美しく、あまりに美しくて、威圧にさえ思えるような笑みで花穂の頭に手を回し、口づけをした。
「――っ」
それは一瞬のことだった。
すぐに花穂はあとずさって、自分の唇に触れる。柔らかで、少し冷たい体温の残る唇に。
「これでもう、貴女の姿は見えなくなりました」
女性の指示する方向。に目をやる。いつかと同じ店のショーウィンドウ。かつて、向日葵の姿を反射したそのガラスにはしかし、花穂とその女性の姿は一切、写っていなかった。
白羽と手を繋ぐ向日葵を見てしまった時のような喪失感を、花穂は覚えた。
それからは二人で尾行するようになった。
女性は尾行だけでなく、花穂の望むことすべてをなんでもしてくれた。白羽と向日葵のやりとりの記録を欲すれば一両日中にはそれを花穂に与え、白羽と向日葵の家での様子を知りたいと願えば、監視カメラと盗聴器を仕掛けて、情報を得られるようにしてくれた。
その代償が大きなものになると予感していたが、花穂は知らないフリをした。
その女性との出会いを除いて、夏休みは未来からのDMの通りに進行した。地元の夏祭りが突然の台風で延期になったり、海外の大企業が倒産して経済が大変なことになるとニュースで連日報道されたり。
そして白羽と向日葵の関係もまた、例外ではなく。
「この力の使い方を教えてください」
女性と出会って一週間が経過していた。問題の八月二十日はもう、すぐそこにまで迫っている。
朝起きたら、いつも当たり前のようにベッドの横で缶コーヒーを飲んでいる、未だ名も知らぬ女性に花穂は懇願した。
「条件があります」
女性は缶コーヒーを花穂に差し出して言った。
「私は貴女が欲しい」
花穂はその缶コーヒーに手を伸ばし、少しの逡巡を経て、受け取ることに決めた。
◇◇◇
七月二十日。夏休みに入ってまだ一週間と経たない朝のこと。
小野寺花穂はいつものように起床した。一人きりの寮の一室。
いつもと違うのは、机の上にUSBが置かれていたこと。
窓は閉まっている。部屋の鍵もかかっている。そもそも、女子寮のセキュリティはかなり高い。侵入者など、ありえないはずなのだ。
向日葵に相談しようとして、花穂は首を振る。
――もう自分は、向日葵に手を引かれるんじゃなくて、向日葵の手を引いていく存在になるのだから、こんなことで頼っていては駄目だと、そう想いを確認して。
その不気味なUSBを花穂は捨てることにした。見なかったことにして、駅のゴミ箱にでもこっそり入れてしまおうと。
向日葵に相談しようと、手にとったスマートフォンが振動したのはその時だった。
通知が一件。それは自分のもとにDMが送られてきたことを通知するものだった。
DMの内容は、動画だった。
『机の上に、USBが置かれていると思う。そのUSBのことは決して、誰にも言わないで。向日葵にも、寮長さんにも』
動画に映るのは花穂だ。動画の中で花穂は淡々と、不気味なくらいに落ち着いた様子で語る。
『そして、USBの中身を確認して。大丈夫。ウイルスとかは仕込まれてないから』
なにか尋常でないことが起こっている。そう直感した花穂は動画のメッセージに従うことにした。
USBの中身は監視カメラと盗聴器によって記録された、白羽と向日葵の二人が身体を重ねる様子だった。
映像に記されている日付は、今年の八月二十日のもの。
衝撃的な映像に見入っていると、不意に映像が途切れて、花穂の顔が写し出される。DMの動画と同様、不気味なくらいに穏やかな花穂だ。
『さっきの動画を見て、あなたがどう感じたかは聞かない。聞くまでもないからね。でも、それは間違ってるってことを私は伝えたい。だって向日葵は、一度夢中になったらなんでもかんでもとことんやってしまう子だって、私は知っているから』
花穂には覚えがあった。
中学生の頃、向日葵がアイドルグループにハマったことがあった。その時は握手券をかき集めるために貯めていたおこづかい全てをCDの購入にあてるくらいに熱狂していた。誰の静止も聞かず、全力疾走するさまはむしろ清々しさすら感じさせるものだった。
『だから、』
動画の中の花穂が告げる言葉、それは耳を疑うようなもので、しかし同時に、予想のつくものだった。
『――あなたは向日葵を自分のもとに束縛しようとせずに、白羽晴良さんの方を自分のものにして、向日葵の思いを一方通行のままに終わらせて。でないと、』
穏やかな笑み、一切の執着から解放されたかのような顔で、動画の中の花穂は言った。
『向日葵も白羽さんも、私は殺してしまうから』
「そして、それを隠蔽する術もあります」
耳慣れない声だった。どこか普通じゃないような、遥か遠く、天の彼方から語りかけるかのような声。
その女性はいつの間にか、花穂の部屋の中にいた。机の上に缶コーヒーを置いて、中国語訛りの日本語で言った。
「私は仙人です。貴女のしたいこと、なんでも協力します。だから貴女、我々に協力しなさい」
窓から差し込む朝の日射しはまるで、後光のように見えた。
◇◇◇
真新しい制服が血の色に染まる。
転校初日の朝、白羽晴良は食堂で右往左往しているところを何者かに刺され、命を落とした。不可解だったのは、犯人の姿がどこにもないことだった。白羽晴良は突然、何もないはずのところから出現した包丁によって、殺害されたのだ。
◇◇◇
「――どうして…………?」
白羽晴良は全身に汗をかいて、目を覚ました。
彼女は未来の自分から送られてきた情報を夢として受信する。つまりその日、晴良が夢に見た光景は現実のものとなりうるということだ。
そこで不可解なのが、なぜ未来の晴良はあっけなく殺害されてしまったのか。
晴良の予知夢は望むと望まざると発生する。それも、ほぼ毎日。
つまり、予知夢の中の自分は予知夢を見た上でその行動をとっているはずなのだ。
ならば食堂で殺されるという未来は、予想外の出来事であるはずで、つまりは時空に干渉する能力を持つ何者かが引き起こした出来事に違いないと結論づけた。
食堂に行くのは絶対にやめようと決めて、晴良は家を出た。
今度は登校途中に殺害された。
◇◇◇
目を覚ますと同時、晴良は瞬時に横に寝転がった。瞬間、さっきまで首があったあたりに、包丁が突き立てられる。
「残念です。殺し損ねてしまいました」
少し発音の独特な日本語だった。
感情が希薄なのか、さほど残念という雰囲気でもない調子で、呟く声がした。
「誰!?」
「貴女が知る必要はないです」
再び、何者かが襲いかかる。晴良の目に、襲撃者の姿は見えない。包丁も、ベッドに突き立てられてしばらくすると再び透明になってしまった。
「くっ」
見えない凶刃を晴良は躱す。
「ン……? 妙です。姿は消してるはずなのですが……」
「確かに、見えてはいないよ……でもッ」
もう一度攻撃を躱し、今度はその目には見えぬ包丁の切っ先を手で握って、言う。
「生憎と、識ってるんだ。さっきまで見てた予知夢でね」
「
「拒否したら?」
「殺害します」
「どうして?」
「そうするよう、小野寺花穂さんに言われてます」
「なるほどね。知らない人から恨み買っちゃったか……」
「これから買うのです」
「まだ恨み買ってないんなら見逃して」
「我々に協力いただけるなら」
「協力するとなんかいいことあるの?」
「あなたの命を奪うのはやめるよう、私が小野寺花穂さんに言い聞かせます」
「じゃ、それで」
次の瞬間、晴良の腹に包丁が突き立てられた。
「この情報、しっかりと過去に送って下さい」
◇◇◇
晴良が目を覚ますと、隣には見慣れぬ女が立っていた。まるで人間ではないかのような、神々しさのある女だ。
「あなたが透明人間?」
「人間じゃないです。仙人です」
晴良は女の手をじっと見る。
「……包丁はない、か」
「当然です。殺すのは取り止めにしてもらいましたから」
「ちなみになんで私、恨み買ったの?」
「痴情のもつれです。貴女が小野寺花穂さんの幼馴染とみだらなことするから」
「そうなんだ。そういう欲は私にはないと思ってたけど……」
「小野寺花穂さんの幼馴染の方の欲がとんでもないのです。貴女は流されてただけです」
「そんなんで殺されまくってたの?」
「はい」
「そうなんだ……ところであなたは、何時の未来から遡ってきたの?」
「私にそのような力はありません。ですから全ての真相を知る者はこの世界には存在しないでしょう」
嘘か真か。晴良には判断がつかない。
「じゃあ仕方ない。詮索はやめるよ」
「賢明です」
「ところでその……小野寺さん?はなんで私を許してくれたのかな」
「では本人から話を伺いましょう」
女が指を鳴らす。すると女の隣に、気まずい顔をした少女が現れた。
「あなたが小野寺さん?」
「う、うん……そう、です」
小野寺は萎縮しているように見えて、晴良は呆れてしまう。
「私を何度も何度も殺しておきながら、なんでそんな縮こまってんの……」
「そ、そう言われても! ……なんでこんなことになってんのか、私にもよく分からなくて…………」
どうやら本当に何も知らないらしい。
晴良は肩を落とす。
「それで、わざわざ私達を会わせた理由は?」
「不毛なことはもう、終わりにすべきだと思いまして。貴女方の殺し合いももう、おしまいにするべきです」
「そうだね」
「ですから、」
ふわりと、女が二人を抱き締める。
「――貴女方には私と同じ、死んでも死なない身体になっていただきます」
そして刹那の一瞬だけ、三人は消えて、次の一瞬にはもう、戻ってきていた。
けれど目付きはまるで別人で、全てを見下すかのような底知れない冷たさがそこにはあった。
「あとはどうぞ。御自由に。時が来ればお呼びしますので」
女が消えて、二人だけが残される。
三人が消えた刹那の一瞬。そこで起きた出来事は決して語られない。しかし、それによって起こった変化は明白で、
「負けないから」
「私も、負けたくないよ。あなたには」
その始まりの欲望を焼き尽くしてなお止むことなく、時空の彼方に消えたはずの炎は今、新たな火種を得て、かつてないほどに燃え盛っていた。
既知の夏の終わり 砂塔ろうか @musmusbi
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