第62話 スレイン渓谷


 馬車を得ることを断念した俺達は、徒歩でスレイン渓谷に向かうことにした。



 どのみち渓谷を渡る際は馬車を捨てなければならない。

 それで下手に足が付くくらいなら徒歩の方がマシだ。



 渓谷までの道のりは平坦な場所が続き、歩き易い反面、見通しが利きすぎるのが難点だ。

 常に立ち籠める靄が自然のベールになってくれていることが唯一の救いだった。

 とはいえ、周囲を警戒しながら進んだ。



 時折、短い休憩を挟みながら歩き続け――、

 明くる日、俺達の目の前に突如、地表の割れ目が現れた。



 それが最初の目的地、スレイン渓谷だった。



「うわー……すっごーい……」



 エリスは崖の縁から下を覗き込んで、その深さに体を震わせていた。



 彼女が身震いするのも分かる。

 谷底が視認出来ず、闇しか見当たらないくらいの深さなのだから。



 落ちたら一溜まりもないな……。



 地面を切り裂く、この深い谷が左右の地平線まで続いている。

 谷の向こう側はもうゼーガス皇国の領地だ。



 だが向かいの崖までは目測でも三百メフラン(約三百メートル)はある。

 勿論、この渓谷には橋など架かってはいない。



 回避するには渓谷の切れ目が無くなる突端まで回り込まなくてはならない。

 無論、そちら側にはラベリア王国の砦がある。



 だから選択肢としては端から考えていない。

 ここを渡るしかないのだ。



 アリシアとエリスは、そのまま翼でこの場所を越えることが可能だろう。

 問題は俺だ。



 さすがに彼女の細腕では俺を持ち上げて飛ぶことは出来ないだろう。

 となると、やはり、あの方法で行くしかないか――。



「お前達二人は、先に飛んで渡ってくれ」

「えっ……ルーク様は?」



 アリシアは不安げな表情を浮かべる。



「俺は糸を使って渡る」

「糸を?」



 彼女は、そんな細いものでどうやって? というような顔を見せた。



「それは、一本だけで渡ろうとするなら難しいだろう」



 俺の立てた計画はこうだ。

 俺が今出せる全ての糸を使い、網を縫う。

 それを向こう岸に縫い付けて固定し、そこを渡るのだ。



 糸の頑丈さは、これまでの戦いである程度証明されている。

 俺一人が乗ったところで切れるような代物では無い。



 それにこの方法は、つい先日判明した糸切りのスキルがあるからこそ出来る作戦だった。



 糸を手放しても固定できなければ意味が無いからな。



 その方法をアリシアに話すと、納得してくれたようだったが……。



「でも、糸を編んだとしても安全に渡れるとは限らないと思います」

「だろうな」



 一本一本の糸は細い。

 それをいくら集めたところで、やっと人一人が渡れる程度の幅にしかならないだろう。



 渓谷の上でスリリングな綱渡りというわけだ。



「エリスを渡し終えたら、私が併走して飛びます。もしバランスを崩しそうになったら私に掴まって下さい」

「アリシアが羽ばたく風圧で足を滑らせそうだがな」



 すると、彼女は頬を膨らませ本気で怒ったような顔を見せた。



「もうっ! ルーク様、冗談は止めて下さい! もちろん、そうならないよう少し後ろを飛びます」

「ああ、分かった。頼む」



 という訳でその方法で進めることになった。



 ――さて、やると決めたはいいが……向こう側まで糸が届かなくては元も子もない。



 レベルアップして有効距離はだいぶ伸びているはずだが、編み込めばそれだけ短くなる。



 俺は両手を伸ばし、魔力で紡ぎ出せる全ての糸を放出する。



 まるで触手のように生えた糸は互いに絡み合い、細長い網へと変化してゆく。

 その状態で、対岸に向けて伸ばした。



 ――届いてくれ。



 そう願った直後、対岸の岩に当たった感触が糸を通して俺に伝わってくる。



 ――届いた!

 よし、あとは……岩場にしっかりと固定を……。



 網の先から解れた無数の糸が、対岸の岩をまるで布のように縫い付ける。

 手元の糸も足下の岩場に縫い付け、切り離した。



 それで網がピンと張られる。



「よし、できた」



 渡る準備が整うと、アリシアはまず先にエリスを抱きかかえ対岸へと向かった。



 それは随分あっさりとしたもので、いとも簡単に渡りきっていた。

 向こう岸でエリスが手を振っているのが見える。



 この時ばかりは翼があることを羨ましく思った。



「じゃあ渡るぞ」

「はい」



 戻って来たアリシアと共に渓谷に渡した網を渡り始める。



 自分で言い出したアイデアだが、やってみて常軌を逸していると感じた。

 深い谷底の上を靴幅程度しかない細い網を頼りに渡るなんて、常人は思い付いても実際にやりはしないだろう。



 それぐらいに恐怖が真下にあった。

 深い谷底も勿論だが、この薄く漂う靄が煩わしく足元の集中力を奪う。

 無風だったことは幸いだが、この静けさが逆に不安を煽る。



 それでも着実に足を進め、対岸まであと五十メフラン(約五十メートル)という所まで迫っていた。



 ――よし、あと少しだ……。



 そう安堵したことが気の緩みに繋がったのだろうか?

 それとも靄で湿った足下が滑ったのだろうか?



 次の一歩が網の端を掠めた。



「……!!」

「ルーク様っ!?」



 ――ヤバい!



 落ちる!

 そう思った瞬間、咄嗟に手を伸ばし網を掴む。



 網は反動に従って大きく揺れた。



「ふぅ……危なかった……」



 宙ぶらりんになりながら、吐息を付く。

 寸前の所で落下を免れることが出来ていた。



 アリシアも手を震えさせながら、安堵の息を吐いていた。



 しかし、それはこれから起こることの予兆でしかなかったのだ。



 生きていた事の喜びを噛み締める間も無く、不穏な震動を掴んでいた網から感じた。



 それは俺がこれまで渡ってきた方向。

 岩場に固定してあった網の端が岩ごと崩れようとしていたのだ。



 元から岩盤が弱かったのか?

 それとも頑丈に縫い込み過ぎて岩の組織を破壊しまったのか?

 理由は定かではないが脆くなっていたらしい。



 次の瞬間、片側の端が切れた。



「!」



 俺は網を掴んだまま、まるで振り子の重りのように落下し始める。

 当然、目の前に迫ってくるのは対岸にそそり立つ岩壁だ。



 その勢いでそこへ叩き付けられれば、生身の人間など熟した果物のように果汁を撒き散らして潰れてしまうだろう。



 だが、ここで諦めるわけにはいかない。



 ――何か方法は……。



 瞬刻の間に目まぐるしく思考を巡らす。

 その時――、



「ルーク様ぁぁっ!」



 頭上から急降下してくるアリシアの姿が視界に入った。


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