雪溶けと共に消え、残るのは感傷
明通 蛍雪
第1話
『雪溶けと共に消え、残るのは感傷』
「ねえ」
僕を呼ぶ声に振り返った。
「次、いいよ」
「うん」
強気な彼女の声に促され立ち上がった。赤みがかった紫髪を背中まで垂らす彼女は、華奢な体を布一枚で覆っている。湿っぽい肌に数滴の滴が垂れ、上気した体からうっすらと湯気が立ち昇っている。
僕は彼女に背を向けて浴室に足を運ぶ。白一色の脱衣所に、壁には大きな鏡が設けられている。鏡に映る自分の姿を見て、ため息が一つ溢れた。
黒い髪、普通の顔立ち。少し前髪が長い気もするが、どこにでもいる普通の高校生だ。
僕は風呂に入り、彼女の待つあの場所へと向かわなければならない。だがその前に、なぜこんなことになっているのか。遡るは一ヶ月前に及ぶ。
「君、彼女いるの?」
彼女との出会いは衝撃的だった。初詣に行った神社でそう声をかけられた。話をしてみれば、同じ高校の後輩だと言うことがわかった。ナンパのようなことをしてきた彼女は、僕に恋人がいないことを知ると、さも当然のように付き纏ってきた。
彼女は、僕に恋をしていたらしい。片思いだった。
僕は彼女に興味がなかった。顔もタイプじゃないし、今は恋愛をするような気分でもなかった。どれだけ彼女に言い寄られても、僕が彼女を好きになることはなかった。
僕が何も言わないのをいいことに、彼女の行動はどんどんエスカレートしていった。
「家に行ってもいい?」「私の彼氏」「愛してるって言ってほしい」「私以外の女と話さないで」
彼女は僕の家によく来るようになって、正直なところ迷惑に感じていた。僕も来年からは三年生。受験に向けて勉強をしなければならない頃だ。遊んでいる余裕はなく、僕は彼女に告げた。
「もう、僕に構わないでほしい」
彼女はとても驚いていた。困惑していた。僕が何を言っているのかわからない、とでも言いたげな表情で聞き返してきた。
「もう、僕に近づかないでほしい」
「な、なんで?」
この時の彼女はとても泣きそうな顔をしていた。
「僕は君の彼氏じゃないし、別に君のことを好きなわけでもない」
僕は少し冷酷な調子で伝えた。冷たいくらい、彼女が僕のことを嫌いになるくらいじゃないと、彼女は諦めてくれないだろうから。
彼女はひどく狼狽した様子で、十数秒考えてから、
「最後に一つだけ、お願いがあるの」
「何?」
「私を抱いて……」
「それは――」
「一度だけでいいの。一回だけ、それであなたのことは諦めるし、忘れる。ただ、一夜だけは、本当の恋人みたいに、私を愛してほしいの」
できないよ。という言葉は、彼女に遮られてしまった。彼女の今まで見たことないくらい真剣な眼差しに、僕は拒否することができなかった。一度だけなら、それだけのことで諦めてくれるなら。僕は拒否する理由を見つけられなかった。
そうして、現在へと戻る。
「好きだよ。。愛してる。君を、君だけを愛してる」
「ん……」
薄明かりの下で言葉を紡ぐ。僕の口から出る睦言は、全て偽りだ。紛うことのないほどに偽物だけだった。
彼女の息遣いが耳元にある。彼女の暖かさ感じる。今この瞬間は、彼女は僕の物だった。欲しいと思ってはいないけれど、たしかに手の中に感じている。
「君を愛してる。可愛いよ。誰にも渡さない。僕だけの物だ」
「うん……私も」
彼女の手が首の後ろに回される。強く抱きしめられ、お互いに首筋を撫でるように味わう。掠れるほどの甘言が互いの耳を濡らし、脳髄を蕩けさせる。
長い夜が過ぎていった。
彼女は泣いていた。嬉し涙か、哀しみの涙かは分からなかったけど、たしかにその瞳は濡れていた。決して雨に濡れたせいではない。
朝になると、雨が降っていた。昨夜に降った薄雪は、パツパツと降りしきる雨によって、泡沫のように溶けてしまっていた。
涙を拭った彼女は、最後に一つだけ微笑んでから、雨の中を走り去っていった。傘もささずに僕の前からいなくなってしまった。
これで、僕も心置きなく変えることができる。もう、彼女に付き合わされることもなくなった。
傘を持たない僕は、雨が止むのを待った。なかなか晴れない空に愛想を尽かして、傘を買って帰った。
雨模様のように、僕の心には暗い何かが居座っていた。
僕は決して、彼女を好きではなかった。それは今でも変わらない。なのに、この気持ちはなんだろう。心の隅に残る違和感は。飲み下せない居心地の悪さを抱えたまま、僕は帰る。
空っぽの胸の中に、ポツリと彼女の残していった何かだけが、僕に気持ち悪さを与えた。喪失感なのかもしれない。
彼女はもう僕のことを忘れてしまっただろうか。もう、明日からは他人のようになるのだろう。そう思うと、少しだけ、ほんの少しだけ。寂しいような気もしてきた。
最後にこんな気持ちにさせるなんて、ずるい。
雪溶けと共に消え、残るのは感傷 明通 蛍雪 @azukimochi
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