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 俺は考えるのをやめた。世界の静けさに、もう耐えられなかった。


 狂っているというのなら、それでも構わない。何にせよ、これからもあの事務所で、何食わぬ顔をして仕事をし続けるなんて、そんなことはできなかった。それがたとえ、自分の所属する結社から充てがわれた役目なのだとしても。結社からの資金援助が打ち切られることになったとしても、拷問を受けることになったとしても、もう耐えられない。秘密を胸に抱え続けることには。そして何より、孤独には。


 プロの探偵として、あるまじき行為をした。


 俺はあの日、拾った財布の中身を見た。そこにはジェーンのフルネーム、そして住所が書かれたIDが入っていた。逡巡の末、俺は彼女に会いにいくことに決めた。

 会って、どうするのか? 

 婚約者がいるのに。約束を破っているのに。

 この数日間、幾度も自分に問いかけたが、やはり答えは出なかった。でも、俺にはもう他にどうしようもないのだ、ということだけははっきりしていた。彼女だけだった。俺の悪夢は眠りの領域をとうに越え、陽に晒された氷のように、現実の表面にまでじっとり滲み出し始めていた。


 眠れば、あの舞台の夢を見る。


 しかし起きていても、恐ろしい幻に侵されて、自分を保てなくなるようなことばかり起こる。昨日は白昼夢を見た。銃で撃たれ、血溜まりに倒れる青年たち。もう限界だった。

 彼女と話す時間だけが、いつの間にか、俺の救いになっていたのだ——彼女と同じ世界を見たい。共有したい。心の底から、そう思った。

 


 彼女の家は町外れにあった。



 バスから降りて、数分歩き。IDでもう一度住所を確かめてから、近づいた。閑静な住宅地の中にある、他と変わらぬ普通の家。狭い庭にはガマズミが植っており、鮮やかな赤色の実をたくさんつけている。


 呼び鈴を押す指が、震えた。


 心臓の鼓動の荒さに体ごと揺さぶられるようで、立ちくらみを起こしそうになる。もし、彼女に拒絶されたら。いや、おそらく拒絶される。でもそうなったら、俺は一体どうしたらいい? 誰に頼ったらいい? ほかに、誰を信じたらいい……? 


 結局、泣き出しそうになりながら、勢い任せにボタンに指を突き付け、押した。


 ここで延々と迷っていても、仕方がない。もともと、洗いざらい話すためにここに来たのだ。聞いてもらえないことなど、覚悟の上。だが、一縷でも希望があるのなら、それに縋ろう。早く楽になりたい。心の重しを消し去りたい。そのためなら、俺は何だってする。


 しかし、ベルを何回鳴らしても、一向に誰も出てこない。


「……?」


 ガレージを見ても、やはり車は入ったままだ。だから家にいると思ったのに。徒歩で買い物にでも出ているのか。しかし観察した限りでは、この近くには歩いて行ける距離に店はない。それか、自転車を使ったのか……いずれにしても、俺にはなす術がない。

 時間を置いてまた来るしかないのか、と思ったその矢先、それは聞こえた。


 ガタン。


 小さな物音。


 家の中からだ。


「……」


 まさか、と思う。


 冷や汗なのか、何なのか、わからないものが背中を伝う。フラッシュバック。血塗れの壁。落ちる林檎と、胃酸の味。


 どうして? 


 どうして、どうして……どうしてだ? 


 どうして世界は、俺にばかりこんな不幸を……こんな苦痛を見せつけるんだ。だって俺でなくてはならないことなんて、何もないじゃないか。隣の家の奴じゃ駄目だったのか? 学校の番号順で俺の次に呼ばれる奴じゃいけなかったのか? 今さっき乗ってきたバスの中にしてもそうだ……俺の隣に座っていた奴は、俺と同じような目に人生で一度でも遭ったことがあるのか? 俺だって——俺だってが良かった! 今の俺のことを、「何言ってるのかわからない」と嘲笑って、それきり忘れて難なく生きていける側の席に座っていたかった。その幸せなど知らない席に。幸せについて考える必要もない席に。自分を不幸だと平気で思うことができる席に。


 本当の孤独など知らないのだ。彼らは。


 俺は玄関のドアに手をかけた。それは簡単に開いた。あの時とまるで同じように——ただ一つ違うことといえば、今度は生臭い匂いはせず、極楽のような花の香りが漂ってくることだけだ。

 

 


 

 

 

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