第12話
壁に手をつきながら奥へ進むと、外に抜けるドアがあった。裏口、らしい。
「ひっ……」
ほんのわずかに隙間の開いた扉。
ドアノブについた鮮やかな赤。
そして先程見たのと同じく、点々と落ちた床の血痕に、リジーが怯えた声を上げた。
「こ、これ、ちっ、ちち、血っすよおぉ!」
「そうみたいだね」
「だからなんでそんなに冷静なんすか!?」
ひいい、と騒ぐ彼女をよそに、私はドアの側に置かれたガーデニング用品の中からハサミを手に取る。護身用にはなるか、と考えていると、裏口が——外から開いた。
「きゃあああ!!?」
咄嗟にハサミを向ける私。絶叫して後ろに隠れるリジー。しかし、そこには殺人鬼や獣の姿はなかった。それどころか、床の上にぽつんと四つ足で立っていたのは、見知った首輪の愛らしい小動物だった。
「あっ、うそ、フィン? フィンじゃないっすか!」
なんだ心臓に悪い、と私は息を吐いてハサミを下ろし、リジーは感激してフィンに向かって腕を広げる。
「もー、どこ行ってたんすか。ひとりじゃ危ないっすよ? ほら、こっちおいで〜」
しかし、フィンはリジーの方には行かず、みゃー、とも、なー、ともつかぬ鳴き声を上げながら、ドアの外をしきりに見ている。
「これは……」
「ついて来て、って言ってるんすかね?」
私たちは互いに顔を見合わせ、それからフィンを見る。彼あるいは彼女は、聡明そうな猫目をわずかに光らせると、人間がどうにか追いつけるくらいのスピードで走り始めた。
フィンの跡を追って、森の奥へ再び入る。
茂る草木と土の匂いに混じって、どこかちぐはぐな匂いがした。鉄っぽい匂い、そして、お酒のような匂い。血痕は続いていた。ぽた、ぽた、と土の上に何滴か、間隔を空けながら……でも赤色はそれだけではなかった。
「すごい林檎の数っすね」
私の後ろを歩くリジーが苦々しげに言った。
「果樹園か何かってくらい、めちゃくちゃ林檎落ちてるじゃないすか、このへん」
「そう、だね……しかも、」
しかも、そのどれもが発酵している。
鼻を突くアルコールの強烈な匂いで、その続きは言葉にならなかった。とくべつ糖度の高い品種、だったせいなのだろうか。それとも、林檎はみんなこうなるのか。とにかく獣道には、そういう無残な実りの果実がいくつも落ちていた。適切な時期に刈り取られてさえいれば、さぞ美味しく食べられたはずなのに。そう思うと、二重の意味で嫌な光景だ。
「……あっ、誰かいる?」
リジーの言葉に、びく、と体が震える。森の奥は暗く、私にはあまりよく見えない。
「どこ?」
「ほら、あの木の向こうっすよ。男の子……かな?」
指さす方向に目を凝らすと、確かにいた。顔は見えないが、髪の短い小柄な人影。それを目にした途端、ぐっ、と胸が詰まる。またありもしない光景が、不意に目の前に蘇る。
『ねえ、どこ? お願い、出てきて。……出てきてよ』
森。人を呼ぶ声。それは紛れもない自分の声。込み上げる焦燥と、潰されそうな孤独。でも泣けはしなかった。だってもし泣いたら、嫌な予感が現実になってしまいそうで——
「……アさん、ねえ、リアさんってば!」
はたと我に帰る。
強く身体を揺さぶられる感覚に、横を向くとリジーが泣きそうな顔でこちらを見ていた。
「あ、ごめん。少し、ぼうっとして」
「そ、そんな謝んないでください。心配してただけっす。急に青い顔してしゃがみ込んだから……大丈夫っすか?」
「あ、ああ」
大丈夫、と答えたいのに、言葉が続かない。心の芯を抜かれたように力が出ない。少しでも何か言ったら、その瞬間何もかも崩れてしまいそうだった。
「……もー。しょーがないっすね」
依然として怯えを顔に滲ませながらも、リジーは地面に座り込み、にわかに歯を見せて笑ってみせた。こちらを元気付けてくれようとしているのだろう。本当に気丈で、優しい子だ。
「少し休みましょ。疲れてるんすよ、きっと」
「そう、かな」
「そうっすよ」
ぽんぽん、と彼女は私の背を優しく撫でてくれた。年上のくせに情けなくて申し訳ない気持ちはあったけれど、その手は太陽のように温かくて、とても心地良くて、何も言う気にはなれなかった。ただ身を任せ、甘えていた。
するとフィンがそろそろと傍へきて、こちらをじっと見つめてきた。不安げな光を灯すその瞳に、ごめんね、と心の中で小さく謝る。少し休んだら、またすぐに歩き始めるから。
「……なーぉ」
それが伝わったのかどうなのか、何か特攻兵の頭突きのような、ちょっと変な仕草で、フィンがすりすりと頭を右手に擦り付けてきた。ふわふわの毛の感触が、くすぐったくて、気持ち良い。フィンはそれから何往復もしながら、小さな頭を執拗にぐりぐりやってくるので、気を利かせて頭と首輪のあたりを私の方から撫でてやると、ようやく納得したように目を細めた。
「……ふふ」
あまりにも自由すぎるそのスタイルに、思わず笑みがこぼれた。「そろそろいこう?」と言わんばかりの視線に、強く頷いて立ち上がろうとした時だった。悲鳴が聞こえた。私とリジーは身をこわばらせ、フィンはその声に反応して猛スピードで駆け出した。それは聞いたことのある声……あのテープレコーダーの少年の声だった。
「ま、待って! 速すぎるっすよ!」
「フィンが危ない。私たちも行こう」
「え、あ、はい……!」
急いで立ち上がり、森の中を走りながら、自分でもよくわからなかった。だってフィンはとっくに死んでいる存在かもしれないのに、なぜ私はあんなことを言ったのだろう。それが本当の理由ではなかったのかもしれない。すべては私自身が、あの少年のところに行くための口実、なのか。もう自分にもわからない。それもいつものことになりつつあったが。
「あ……!」
走り出してすぐにリジーが悲鳴を上げた。私も声は上げないながら、ぞっと体温が下がるのを感じた。道の先で、フィンが血を流して倒れていた。幸い息はあったが、切り傷は深い。早く病院に行かないと死んでしまう。
「そんな、そんな……!」
リジーがフィンを抱き上げようとすると、また大きな声が聞こえた。今度は成人男性の吠え散らすような声だ。私はとっさにリジーを引っ張って、近くにあった木の後ろに隠れる。
意味不明の言語での、不穏な会話。
木の陰から伺い見れば、少年と男が何かを話し合っているのが見えた。いや、話し合うというより、やはり一方的な詰問のようだ。少年は腰に傷を負っていた。服にまで血が滲み、痛みに顔を歪めている。
それに相対する男の手には、包丁がある。だがそれを向けて恫喝するわけでもなく、ただ中途半端に握ったままで、じりじりと少年の方へ近寄っていく。
殺すため、ではないのだろう。
あれはきっと男にとって、『支配するため』の道具に過ぎないのだ。
「まずい……」
私は必死に知恵を働かせる。少年を助けたいとかそういうことは、もはや望みの範疇を超えているように思われた。それはとっくに夢、幻想、あるいは架空の物語の領域に達していた。私は少年を助けたかった。傷ついたネコ科の動物を助けたかった。迷子の少女を助けたかった。でも、それで世界が動いてくれるわけはない。
ここは現実ではない。
でも、そういう都合の良い世界でもない。なぜならここは現実の残り香、現実の搾りかすのようなものなのだから。
「だめ……」
頭がちかちかして、ひどく痛み出す。少年が叫んで逃げる。男が追う。距離は狭まり、刃先が容易に届くまでの近さになる。冷や汗が噴き出る。だめ。やめて。お願い、彼を——彼をこれ以上傷つけないで。
「……え」
唖然としたような、小さな呟き。
それはリジーのものだった。
私は最初、それが何を意味しているのか、わからなかった。そして、背後を振り返って、気づいた。それは私たちが以降の言葉を失くすには十分な光景だった。いや、もはや、十分すぎた。
——ヘラジカ。
その生き物の名前を、なぜか私はすっと思い出すことができた。神聖な角、頑強な体。清らかな空気を纏ったそれが、私たちのすぐ後ろに立っていた。くらりと、酒のような匂い。私たちは恐れ慄いて身を寄せ合う。
なんて——大きいのだろう。
実際の体積よりも、ずっと、ずっと大きく見える。まるで森そのもの——一個の森が、四つの脚で立っている。それくらいの重み。それほどの畏れ。ヘラジカの放つ存在感は、まさに圧倒的だった。
喰われる。
そう直感した。まざまざとグロテスクな、野蛮人の思うような捕食ではない。それは本当に摂理のような行為。あらかじめ大いなる存在によって決められた流れ。決められた同化。何度も何度も同じことが行われ、おそらくこれからも行われる。何度も。何度も。
「に、げて」
かろうじて出たのはそれだけだった。喉が、固い。痛い。溶けた蝋を流し込まれたように、はりつき、全く動かない。隣の少女は泣いていた。声を出さずに、ただ恐怖の涙を流していた。
ヘラジカは、自分の足元に倒れ伏している、ネコに似ている小さな動物を見た。
だくだくと、鮮血が溢れ続けている。もう助からないかもしれない。何の罪もなかったのに。突然刺され、喰われ、そして死ぬ。それをじっと見ていたら、知らず涙が一筋流れた。
「……」
何かを感じ取ったように、ヘラジカは視線をこちらに向ける。絵筆のように滑らかな睫毛の下に隠れた、焦茶の瞳。ただ震えるしかない私たちの方へ、しなやかな脚が一歩、また一歩と寄ってくる。私とリジーは顔を伏せた。だが、しばらくして顔を上げると、そこにヘラジカの姿はなかった。
「え……?」
二人で呆然としていると、今度はまた後ろで、悲鳴が上がった。振り返って眺めると、少年が私たちと同じように腰を抜かしている。そして成人男性だけが、無謀にも、愚かにも、ヘラジカに襲いかかっていた。信じられない気持ちだった。
何も、わからないのだろうか?
いや……わからないのだろう。
世の中には分かり合える人間と、分かり合えない人間がいる。一方がどれだけ傷つきながら、必死で手を差し伸べても、もう片方にはその必死さなど伝わらない。嘲笑われ、無下に払われて終わるだけ。それと同じなのだろう。彼にはきっと本当にわからないのだ。神が許した善悪のラインが。この森でしていいことと、決して許されないことが。
男は包丁を振り回す。だが、ヘラジカは怯えも怒りも抱いていない。
それどころか、まるで数秒先の未来まで、全てが見えているかのように落ち着いていた。でもそれも当然だろう。ここは彼のフィールドなのだから。彼自身が、この森なのだから。
ことが終わる瞬間は、静かだった。
芸術品のごとく美しい脚によって蹴り上げられ、男の足が地を離れる。揺蕩うようにゆっくりと、しかしそれは暴力の域すら超えた、重たい一発。そのひと蹴りで、男はぴくりとも動かなくなった。地面にどさりと倒れ落ち、あとはひたすら、静寂だけがあった。
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