第13話




 暗闇から、声が聞こえる。


「楽しかった? 頼れるお姉さん役は」


 女の人の声。

 聞き覚えのある、毒気を孕んだ優しい声。


「でも意外だったなぁ。自分にも他人に関心のないあなたのことだから、あんな迷子、歯牙にも掛けないと思ってたのに。ま、私としては一石二鳥だけどね。近頃のあの子は、ずっとすいそうの外に出たがって、うるさかったからね」


 これは水泡の音だろうか。

 エアレーションから酸素が送り込まれるような、あるいは、サージカルドリルで頭蓋に穴を開けられているような。そんな冷たい機械音。


「それにしても、かっこよかったな。『あなたが助けてと言ったから』なんて、まるで正義のヒーローみたい。でも……私は知ってるよ? それがあなたの本心じゃないってこと。あなたはただ一人が嫌だっただけ。あの子が困っているのを利用して、自分が楽になりたかっただけ。弱者を助ける正しい自分に、酔っていたかっただけなのよ。でしょ?」


 そんなどうでもいいこと、なぜわざわざ話すのだろう? 

 どうせ消えてしまう世界なのに——

 それに、上の世界現実で私が「助けて」と言った時、助けてくれる人はいなかった。

 いや……ただ一人だけ、いた。

 助けを乞うたわけでもないのに、あの人は私を助けてくれた。

 それでも、私が何も聞かなかったのは——


「どんな悲劇はなしも、導入さいしょはいつも楽しいもの。楽園たかいところから落ちるほど、悲しみの海は深く、嘆きの嵐は吹き荒れる。残酷な台本シナリオだね。その善人の仮面も、一体いつまで保つのかな?」


 暗闇の中に、白く発光する、丸い何かが見える。

 ああ……海月クラゲだ。

 何体ものクラゲが、小さなパラシュート花火のように、上から下へと降ってくる。

 ふわり。ふわり。

 脆くて優しそうに見えるのに、指で触れると、電撃のような痛みが走った。



「——あ、れ?」



 そして目を開くと、知らない天井が目に入った。

 ここは、一体。

 さっきまで森にいたはずなのに、と横を向くと、見知ったブルーの瞳がこちらを見つめていた。


「あ、よかった! 気がついたんすね」


 不安げだったリジーの顔が、みるみる笑顔に変わる。よく見れば服も変わっていて、品の良いブルーのブラウスと、黒い短パンを履いている。

「……その服は?」

「着替えました。これはまだ、気に入ってる方なんで」

 頭の下に敷かれたクッションの、羽根のような柔らかさに戸惑う。どうやら私は今、リビングのような広い部屋で、ソファに寝かせられているらしい。しかしソファと言っても、すごくふかふかで、きちんとしたベッドに勝るとも劣らない感じだ。

「そ、そう、なんだ……。着替えなんて、持ってたっけ?」

 尋ねるとリジーは、ふふ、と天使のような笑みを浮かべる。衣服の上品さとも相まって、それは本当に尊いものに見えた。

「あのですねー。びっくりしないでくださいよ? あの森で、あたし気を失っちゃったんすよ。で、目が覚めたら、ここにいたんです」

「ここって?」

 その答えをリジーが口にする前に、部屋の外から、若い女性の声がした。

「エリザベス。こっちに来て、飲み物を運ぶのを手伝って頂戴」

「あっ、はーい!」

 ぱあっと顔を輝かせ、リジーが部屋を出ていく。彼女は心底幸せそうだったが、私はその真逆で、血が凍りつく感覚を味わっていた。あの声を聞いた瞬間から……まるで真冬の吹雪のごとき寒さが全身を襲い、そして視界を奪うホワイトアウトのように、フラッシュバックが止まらない。


 水色の髪の少女。

 気持ち悪い男。

 全身の痛み。

 そして電鋸の唸る音。


「……あ」


 どくどくと心臓の鼓動が早まる。

 逃げないと。逃げないと。

 脈絡なく頭に浮かぶその指示に、どう対応していいかわからない。胸が苦しい。でも、自分が苦しむ様子を、あんな奴にだけは見せたくない。

 だって、あいつさえいなければユウは——


「あら、目が覚めたのね?」


 吐き気がした。

 胸を押さえながら目を向けると、ドアのところに、美しい淑女が立っていた。銀の盆を持ち、そこに水晶のようなグラスを乗せて、春の女神のような微笑を浮かべている。

「あ、あ……」

 落ち着け、と私は何度も自分に言う。

 ここにいるということは、つまり……つまり彼女は死んだのだ。しかし。それでも人魚姫は『あなたは死んでいない』と言っていた。なら、この女も私と同じ生者なのか? でもそんなことが……そんな最低なことがあるか? 一人の人生に、最低なことがこんなに起こるものなのか? 

 そして、もしそうだとしたら。

 この女の隣で笑っている、金髪の少女も、生きて……


「ふふっ」


 不意にリジーに微笑みかけられて、私は咄嗟に笑みを作った。脂汗が滲んだ。怒りなのか、怯えなのか——よくわからないもので腹の中が火薬のように熱い。

 

「ここが、あたしの家っす。そしてこの人は、あたしのお母さんのフェリス。改めまして、リアさん。ローレンス家にようこそっす!」

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