第9話



 目を開けると森の中だった。


 気を失っていたらしい。でもここ自体が夢のような場所なのに、この中でさらに意識を失うなんてあり得るのだろうか……いや、現にこうしてあったのだから、ある、ということになるのか。

 そんなことを考えながら、ゆっくり、ゆっくり、瞬きをしていた。ひどく頭が重い。無意味な考えだけが頭を巡り、体の方はどこか血の巡りが悪いらしい。思えば普通の夢の中でさえなんでもありなのだから、と私は少しだけ笑ってみた。人魚姫という謎存在の仕切る、死者の記憶の国とやらでは、どんなにめちゃくちゃなことが起こっても、別に何もおかしくはないわけだ。

 私はなんとか身を起こし、辺りに誰もいないのを確認し、また横向きに寝そべった。身を起こしたままでいる理由も、意味も、気力もない。一切合切、どうでもいい。森はひどく静かで、涼しくて、風の音がとても心地よかった。衣服と肌にくっつく湿った泥も、あまり気にならない。むしろなんだかくすぐったくて、その感触がまた眠気を誘う。

 朧げに覚えているのは、病院の廊下を歩いているときの記憶だ。

 でも、歩いても歩いても、どこへも辿りつかない。5億年は歩いたような気分だった。やがて限界が来て、もうどうにでもなれ、という気持ちで壁にもたれかかり、いつものように眠りに逃げようと目を閉じた。そして気がついた時には、この見知らぬ森に倒れていたのだった。


 次はどうせ、猛獣か何かに追われるのだろう。


 そんなことを思いながら、私はごろんと土の上でひとつ寝返りを打った。それとも、虫にでも食われたりするのだろうか。自殺した人の記憶でも追体験させられるのかもしれない。悪趣味なお姫様のしそうなことだ。首吊り死体が地面に落ちて、腐って、虫にたかられる。悲惨だけど、ある意味、いい死に方とも言える。他の生命の糧になって死ねるのなら、割と上等な最期だと思った。だって世間には、薬漬けになって尊厳なき死を迎える人や、馬鹿の運転する車に押し潰され、コンクリに飛び散る肉塊になって一生を終える人もいる。それらはゴミとして業者に拭き取られ、まとめられ、焼かれ、灰になって容れ物にしまわれ、ひとしきり生者に騒がれた後で、誰からも忘れられる。


 右手の人差し指の上に、小さな蟻が上ってくるのがわかった。


 蟻はその軽さと身体的な構造により、どんなに高い場所から落ちても死なないのだと、いつか誰かに教わったのを思い出す。それを知った時、なんて美しい生き物だろうと思った。色とりどりの羽を持つ蝶や、角で戦う甲虫、複眼で世界を見る蜻蛉。そんな無駄な装飾など何も持たず、地道に地を這って、仲間のために餌を運んで、死んでいく。中は驚くほど空っぽで、何をしてもすぐ潰れてしまいそうで、声も出せないほど脆弱で、それなのに雲の上から身投げしても、すました顔でふわりと着地する。

 まるで羽のない鳥のように。


『なあ』


 脳裏にふと、なにかの光景が蘇る。青空と、きらきら光る水面。

『何?』

『この前の話だけどさ』

『うん』

『ずいぶん考えたけど、俺はやっぱり——』


 ざあっ、と激しい風が吹き抜けた。


「……」


 何かが近づいてくる気配を感じて、私は再び起き上がる。気配というか、音がする。何かが短い草を素早く踏んで、猛烈なスピードで走ってくる音だ。生存競争激しいサバンナの生き物かのように、怒涛のエネルギーを発散させている様子が、姿を見るまでもなく察せてしまう。

 でも、と私は立ち上がりながら少し困惑した。

 ここはどう考えても寒帯地域の森である。


「狼?」


 いや、狼ならなんというか、もっとスマートに走りそうなものだ。でも近づいてくる足音は、妙にドタドタとして、落ち着きがなく、合間に「ぎゃー!」と滑稽な悲鳴まで混じり——二足歩行の生き物らしさ全開である。


「やばいやばいやばい! 助けてそこの人ー!」


 徐々に見えてきたのは女の子の姿だった。

 肩まで伸びた綺麗なブロンドに、穴の空いたジーンズとTシャツ。男の子にも見えたが、Tシャツのプリントが女児向けアニメのキャラクターなのと、12歳くらいなのに平気で高い声を出しているところからして、たぶん女の子だろう。

 そして彼女の後ろを、小さいヒョウのような動物が追いかけている。


「助けて、って言われても……」


 あんな野生の動物を相手に、私みたいな小娘が何かできるわけもない。キャンプの経験も少ないし、腕力もない。だがよく見ると、動物の首には首輪のようなものがついている。私はそばに落ちていた木の枝を拾い、走ってくる彼らを待ち構えた。


「ひっ! 死ぬぅ!」


 騒がしい少女が私の後ろに隠れるのを見計らって、枝を小動物に向ける。飛びかかってくるかと思ったが、予想に反してその小さなヒョウらしき生き物は、首を傾げながら、こちらをじっと見つめてくるだけだった。小さく鳴き声をあげ、ちらちら動く細い枝先を興味深そうに眺めている。

「……」

 人に慣れている?

 私は枝の先をもっと大きく振ってみた。子猫にそっくりなその動物は、嬉しそうに体を揺らし、氷のように透き通った目を好奇心にきらきらと光らせた。ひゅっ、と枝先を早く動かすと、夢中になって追いかける。これはまるで、

「か、可愛い〜……!」

 思考の波を割いて、背後の少女が感極まった声を上げて私の肩を掴む。

「すごいすごい、すごいっすよー! お姉さん、動物調教師なんすか?」

「いや、違うと思う」

 私は動物の首を指さす。

「タグがついてる。たぶん、人に飼われてるんだよ」

「え。じゃあ、追いかけてきてたのは、単に遊んで欲しかっただけ……ってことっすか?」

「たぶんね」

 それにしても、飼われている動物がなぜこんな人気ひとけのない森にいるのだろう。私は枝を少女に預け、ため息をついた。市街地ならともかく、山にいる猫なんて見たことがない。そもそも山にはあまり行ったことがないが。もしかしたら、これがオオヤマネコという種類なのかもしれない。

「あ、見てくださいよ。タグに住所が書いてあるっす」

 少女が器用に動物を抱き上げて、タグを読んでいる。

「この子のお家まで、届けてあげましょうよ。あ、裏に名前も書いてある。えーと……フィンくんっていうらしいっす!」

「それは、まあ、いいけど」

 見れば見るほど、少女は男の子のような出立ちをしていた。服のプリントや、ピンクの花のヘアピンは可愛らしい感じだったが、笑い方は実に豪快だし、仕草や言葉遣いも、どことなく少年っぽい感じがする。

 それに何より、この世界でこんなにも快活な子は、ものすごく浮いて見える。

「あなたは……?」

「あ、すいません! 名乗るのが先でしたね。あたしはリジーっす。家に帰ろうとしてたら、いつのまにか道に迷ってまして。ここ、一体何なんですかね?」

 本当に何も知らないのか? 

 私は少し信じられない気持ちで、リジーという少女を眺め見た。ただの迷子がこんなところにいるわけがない。記憶の一部なのかとも考えたが、この森の静謐な雰囲気と、彼女の能天気なまでの明るさは、あまりにも不釣り合いなように思えた。

「お姉さんはこのあたりの人なんすか?」

「あ、いや、違う。私はリア。えっと、その……私も迷子なの。あなたと一緒で」

 咄嗟に取り繕うと、リジーは朗らかに笑った。

「なーんだ、お姉さんもかぁ。じゃあ一緒に行きましょうよ。旅は道連れ、世は情けっすから!」

「え、あ、うん……でも、行き先わかるの?」

「うーん、わかりません!」

 あははー、と呑気に笑う彼女を見て、私はもう一度ため息をついた。




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