第10話
森の中に二人と一匹で突っ立っていても埒があかないので、歩いてみようということになった。リジーによれば、フィンに追いかけられている最中、人工的に作られた道を見かけたらしい。そちらに行けば、人のいるエリアに出られるだろう。
方向を知っているリジーが前を行き、私はその後ろをついて歩く。フィンは走り疲れたのか、今の所、大人しくリジーの腕に抱かれている。
「あの、聞いてもいいっすか?」
「もちろん。何?」
「その、お姉さんの服なんですけど……」
そう言われて、私は自分の服を改めて見た。病院にいたときに着替えさせられた、微妙なセンスのトレーナーとジーンズのままである。血の跡はなくなっていたが、さっきまで地面に寝転がっていたので、泥やら草やらで汚れてしまっている。年上らしからぬ自分の有り様が流石に恥ずかしくなった私は、とにかく笑って誤魔化した。
「そ、そうだよね。こんなの、あまりにもダサ——」
そう言いかけた時、リジーがくるっとこちらを振り向いた。
「めっちゃかっこいいっすね!?」
「えっ」
その顔は、お世辞や嫌味とは思えないほど、ぱあっと明るく輝いていた。
「こんなかっけえトレーナーとか、まじ、どこで買えるんですか!? あと泥がついてるのも最高にクールっす! ザ・野生って感じで!」
「は、はあ……」
変わった子だな。
私は自分のことを棚にあげて、そんなふうに思った。
「そんなにレア物でもないよ。そこらのお店で売ってる安物だし」
「そうなんすか?」
ふぅ、とリジーは少し憂いを帯びた目で息を吐き、再び前を向く。
「うちの親って服装にちょー厳しいんすよー。襟付きのじゃないとダメとか、女ならスカート履きなさいとか。服だけじゃなく、言葉遣いもいちいち丁寧に直させられるし。もううんざりっすよ」
「……それで家出した、とか?」
なんとなくそう聞いてみると、彼女は豪快に笑った。
「まっさかぁ。そんなことしたらぶっ殺されますって!」
「そんなに厳しいんだ」
「ええ。でもま、家出も悪くないかもしれないっすけどね〜。映画みたいでカッコいいし」
そんな話をしていると、前方に家が見えてきた。すんなり見つかってよかった、と安堵する私の前で、リジーが首をかしげて「あれ?」と声を発した。
「おかしいっすねぇ。さっき走ってた時、家なんか全然見かけなかったのに」
「必死に走ってたから、見落としたんじゃない?」
「んー。いや、でも……うわ!」
不審がる彼女をよそに、その懐からフィンが勢いよく飛び出した。獣特有の軽やかな足取りで、一直線に家の方へと駆けていくのを見て、私は言った。
「ねえ。もしかしたら、あれがタグの住所の家なのかもしれないよ」
「ま、まじすかぁ……?」
リジーの方はどうだか知らないが、私はようやく目的らしきものが見つかって、気力が再び少し湧き上がってきていた。これまではずっと、ただ逃げたり歩いたりしてきただけだったが、不思議な家が見つかったなら、探索してみる価値はある。何かこの謎空間から出られるヒントが見つかるかもしれないし、何もなかったとしても、まあ気晴らし程度にはなるだろう。
それにもし酷い目に遭ったとしても、どうせ遅かれ早かれ、ここにいる限り、いつかは酷い目に遭わされるのだ。
「私たちも行ってみよう」
しかし、やにわに積極的になった私に対して、リジーはさっきまでの元気さが嘘のように怯えた顔を向けてきた。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ、リアさん」
「どうしたの?」
「どうしたもこうしたも……こ、怖くないんすか?」
「怖い? あの家が?」
そう言われて、私は前方の家をもう一度見た。でもやはり何が「怖い」のかわからなかった。見慣れた日本のそれとは違い、メルヘン童話に出てくるような三角屋根の家ではあったが、特に荒れているわけでもなく、ポーチも外壁も小綺麗で、怖い要素はどこにもないように思えた。強いて挙げるなら、辺りが静まりかえっていることくらいか。
でも、怖いものなんて、きっと人それぞれというやつなのだろう。
「もしどうしても怖いっていうことなら、私一人だけで行くから」
私はリジーの手をそっと握り、安心させるために笑いかけた。思った通り、とてもぎこちない笑みにはなったが、笑わないよりはマシだろうと思った。
「あなたはここで待ってて」
「え……そ、それならあたしも行くっす。一人とか、まじ怖すぎですから!」
彼女は私の背中にぴたりとくっついた。
「えっと、一応聞くけど。何がそんなに怖いの?」
「あ、あたしは……よくわからないっす。何もなかったところに急に家が出てきたから、怖いのかも。それと、あたし、あんまりよその家に行ったことがなくて」
それを聞いて、私はこの子に少し共感と同情を覚えた。思えば私も同じように、学校に行く以外での外出をほとんど許されていなかった。
私は後ろを振り返ってこう言った。
「大丈夫だよ。人の家なんてそんな大したことない。それに、いざとなったら私を囮にして逃げればいいんだからね」
「ははは。え、えーと。それ、ジョークっすよね?」
私はそれには答えずに、家の方へと歩き出した。実のところ、早くあの家を調べてみたくてたまらなかった。留守のような感じもするし、うまくすれば、少し休めるかもしれない。行儀の良いこととはとても言えないが、か弱い女子二人が森の中で困っているのだから、それくらいしても罰は当たらないだろう。
玄関に近づき、呼び鈴を鳴らした。
「ごめんください」
返事はない。だが、ドアに手をかけてみると、鍵がかかっていないことに気づいた。私はそのままドアを押し開け、中に入る。リジーもおっかなびっくりだが後についてきた。
「なんかこの展開、童話みたいっすね」
罪の意識からか、やけに小声で彼女は言う。
「ゴルディロックス、だったかな。それか、スノーホワイトってとこすかね?」
確かにその通りだ、と私は思う。物語の登場人物のように、誰かの手のひらの上で踊らされている感覚が、確かにある。そしてその誰かとは、きっとあの人魚姫なのだ。私はまだ現実には帰ってきていない。たぶん。
「電話があるといいんだけど」
「電話っすか? どうして?」
「あなたの知り合いに電話することができれば、家に帰れるんじゃないかと思って。少なくともあなたは帰ることができる」
そう話しながらも、帰るべき現実というのが一体どこを指しているのかについて、私はかなり不安を感じていた。リジーはともかく、私の場合、おそらくエレミヤの施設にいたあたりまでは現実であるはずだった。だが、それも単なる願望に過ぎないのかもしれないと思うと、恐ろしくてたまらない。私にとって「現実」とは一体どのことを指すのだろう。目覚めた時、日本の精神科病院に一人きりでいたとしたら? 両親も健在で、私だけが異常者扱いされて、生きるべき人生などどこにもなかったとしたら? そうなれば私はどのみち悪夢の中だ。しかも今度は目覚めることのない。
「なんすかね、この匂い」
リジーの言葉に、はっとする。そう言われてみれば、玄関先にまで、ほんわりと甘い匂いが漂ってきている。熱を帯びた砂糖とバターと果物の香り——何かをオーブンで焼いているような匂いだ。
「ケーキでも焼いてるのかな」
「でも普通、オーブンに火を入れたまま留守にしますかね。こういうお菓子作りは、時間のある時にするもんじゃないすか?」
「イヤホンで音楽でも聞いてて、呼び鈴に気づかなかったのかもしれない。私はキッチンに行ってみるから、もし5分経って戻らなかったら、あなただけでここから逃げて」
そのまま家にあがろうとすると、「あの」と後ろから手を掴まれる。
「何?」
振り向いてリジーを見ると、彼女は心底不安げな目をしていた。
「あ、あたしにはわからない。どうしてそんなに思い切って行動できるんですか。まるで怖いものなんて何もないみたいに。どうしてあたしを守ってくれるんですか。あなた自身だって、こんな異常な状況じゃあ、不安で仕方ないはずなのに」
彼女の言葉を聞いたとき、すごく不思議な感じがした。だってそれは私が聞くべきことだったのだ。ユウという名前の殺し屋に。でも私はついに尋ねることはなかった。本当は聞くべきだったのに。
「あなたが『助けて』と言ったからだよ」
私は静かに答えた。
「そういうものでしょ?」
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