File.d
最後のメッセージカードをファイルに戻す頃には、カップの中のブラックコーヒーはとうに冷めきっていた。「骨の折れる作業」という言葉があるが、これには骨というより、心が折れる。そういう言葉の方が似つかわしいように思われた。
「筆まめっていうのも、考えものだな」
椅子の上で大きく伸びをし、凝った肩をゆっくりと回す。散らかった作業机の上を片付け、本棚の資料をアルファベット順に並べ直した。秩序立てて考えることと、事務所の整理整頓。どちらも探偵にとってはとても重要な行為だ。
一通りの整頓を終えると、俺は引き続きタブレットだけを持ち、場所を移動した。デスクは物品分析の時にしか使わない。推理や考察を行うときは、もっぱらソファに寝そべって行うのが俺の習慣だった。
「さてと」
事務所内の書斎の中央に、二人がけソファが置いてある。そばにはガラスのローテーブルがあり、そこに淹れ直したコーヒーのカップを置いてから、俺はソファに寝転んだ。個人差はあるのだろうが、俺の場合、リラックスしている時が一番思考が冴える。とはいえ、今回は特に解決するべきトラブルがあるわけでもない。ただ単に、手紙から読み取れる人物の印象を聞かれているだけだ。つまりは軽いプロファイル、いや、それもかえって良くないのかもしれない。
『こんなこと頼める友人なんて、私にはいないし……』
友人としての、実直な感想。
彼女が欲しているのは、むしろそういうものだろう。もちろん、専門的なプロファイル資料も一応準備しておくつもりだが、それは求められた時にだけ差し出すことにしよう。俺は静かにそう思った。肉親のプロファイルなんて、見て気分を害さない方が珍しい。心の内を無遠慮に推測するかのような、長ったらしくて小難しい文章を見せられたところで、そういう捜査手法に慣れていない一般女性にとってみれば、ただただ不愉快なだけに違いない。
ソファの肘掛に頭を預け、白い天井をぼんやり見上げる。
兄の第一印象は、やはり「洗練されている」という感じだった。
タブレットの写真アプリを起動させ、スキャンしたカードを一枚一枚、スワイプしながら眺める。さすがにあの淑女の兄だけあって、筆跡にはほとんど癖がない。もっと穿った見方をするなら、癖がなさすぎる。家族同士のやりとりならば、普通はもっと癖のある、くだけた字を書くものなのではないか? と俺には思えた。それなのに、これは、なんというか——まるで日本の履歴書のようだ。
家族に宛てたカードを見て、一文字間違えただけでも一から書き直す、ヒステリックで不愉快極まりないあの書類を思い起こしてしまうのは、単に俺が日本の中流家庭の出身だから……なのかもしれない。
「まあ、育ちのいい男ならこれくらいする、か」
相当家柄が良く、プライドも高い人なのだろう。婚約者のタイプによっては、「こんな高慢なやつが義兄だなんて耐えられない」と逃げたくなってしまうのも、考えられない話ではない。とはいえ、文面の言葉選びから感じられる人柄は、とても優しい紳士的なものだ。先入観が生んだ誤解さえ解ければ、意外とどうということはないのではないか。そんな希望的観測をすることもできる。
画像をピンチアウトして、一文字一文字をよく観察する。
筆跡を元にした性格診断というのも、職業柄、試みることはできる。たとえば彼の小文字のLは、常にくるっと綺麗な輪になっている。こういう書き方をする人は、将来に希望があり、大きな夢を持っている。逆に線を重ねて書くタイプなら、過去に夢破れたかして、希望を持つのをやめてしまった人である……というのが概ねの診断結果となる。あとは小文字のyにも、見るべき箇所がある。
小文字のyの幅が広ければ、それは筆者が友達を多く持つ、社交的な人物であることを示すのだ。
「非の打ちどころがないな」
若干の疲れを感じて、俺はタブレットをいったんテーブルに置く。完璧というのは、それだけで人に疎まれる要因となるものだ。完璧すぎる人間がいれば、周囲の人間は、否応なく劣等感を刺激され、悪感情を抱いてしまう。なんとも理不尽な話だが、それもまた人間の常であり、
カードには、文面の他に、写真も貼ってあった。タブレットは使わずに、頭の中で写真を思い浮かべる。
サンモリッツ、ケストヘイ、チェスキー・クルムロフ——。
その他にも様々な風景が写っていたが、どれも有名な観光地ばかりだった。一緒に写真に写るジェーンの兄の顔は黒く塗られていたが、服装は街や自然環境にふさわしいものばかりなので、単に行楽を楽しんでいる姿を撮ったものだと思われた。
脳内で色々と考えていると、旅への欲求が募るのと同時に、奇妙な違和感が頭をもたげた。俺は再びタブレットを手にとる。
何が変なのかは、まだわからない。
だが、探偵としての勘が、危険信号を発しているのは確かだった。
「また考え事?」
タブレットから視線を離して見ると、部屋のドアの前に、腕組みをした女の姿がある。でも、そんなわけがない。ありえない。俺はシャツの下のコンシールドキャリーに手を伸ばそうとした。けれど腕が動かない。たちの悪い金縛りにでも遭ったかのように、頭が痛い。頭蓋骨がみしみしと軋む。動揺も、混乱も、痛覚の渦に飲み込まれてたちまち消えてしまう。
「大丈夫? 顔色が悪いわ」
コーヒーの香りではない匂いがした。林檎、太陽、あるいは鉄。気づけば女の身体はすぐ近くにあった。手からタブレットが滑り落ち、床に当たる軽い音がする。
女が俺の上に馬乗りになり、手を取って、自らの頬に当てた。ひやりとした感触。
「あなたならできるわよ」
頭を二つに割るような激痛は最高潮に達していた。声も朧げにしか聞こえない。土砂降りの日に見るテレビのように、目の前が滲み、歪み、ノイズが混じり、でもその様はおぞましくも美しい。絶え間なくひどい眩暈がした。
ガラス越しではない雨の音を、ぼうっとしながら聞いていた。どこかの窓が開いているのだ。いつ閉め忘れたのか、開け放してどれくらいになるのか、それもわからない。わかるのはただ、ひやりと涼しく、湿り気を帯びた灰色の風だけ。痛みはすでに痛覚の域を超え、自分の一部になりつつある。「自他の境界」。誰もが簡単に言う時代だが、そんなものは存在しない。個の時代は終わろうとしている。人類はかつて国という幻想にこぞって酔い、それに飽きると今度は個を夢想した。次は全てが混ざり合う番だ。ひとは夢なしには生きられない。
「多すぎるんだ」
規則的に動く女の肉体を感じながら、俺は俺がうわごとのように呟くのを聞いた。
「手紙の数が多すぎる。元々大量なのはわかっていたが、一年あたりに換算しても、普通の量じゃない」
「そう」
「まるで、」
兄一人だけではなく。
何人もの愛すべき家族からの手紙を、大事にとっておいたかのような。
「悪夢?」
女の笑い声が聞こえた。きつい化粧品の香りがした。汗の匂い。熱。唇に指が触れ、やがて柔らかいものが当たる。ひとは夢なしに生きられない。吐息まじりの自分の声が聞こえる。そして目を閉じた。
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