第8話




 一体何がどうなっているのか、私にはまるでわからなかったが、そんなのは結局いつものことだ。いい加減、誰でも慣れる。いつもいつも、全てがよくわからないままやって来て、よくわからないままに終わって消えていくか、説明もなくだらだら続く。たったそれだけの世界だ。

 だから、とうとうドアを破壊して入ってきたその化物が、床に塗りたくったお菓子の家の残骸——クッキーの屑やクリームの脂で滑って転げても、あまり達成感みたいなものはなかった。

 ヘンゼルとグレーテルの物語……あらすじを知っているだけで原作本を読んだことはないけれど、あの兄妹も、こんな風に乾いた気持ちだったのだろうか。


「ウォォ!」


 菓子と一緒に撒いた皿の破片が、怪物の後頭部に刺さる。ひときわ高く叫びが上がった。私はこの機を逃さず、窓から引きちぎっておいたカーテンを、苦しみに歪む顔面にきっちり被せる。人より大きな頭だったが、さすがにカーテンサイズの布になら容易に収まった。


「暴れないで」


 布を被せてもなお——もしかしたら白い布なのでこちらが透けて見えたのかもしれない——怪物は歯を鳴らして抵抗した。私は太ももの間に頭を挟み、がっちりと固定してから、ペンを持って高く振り上げる。

 人体の急所。

 視覚を失う手術なんてものがあるなら、彼に必要なのは、たぶんそれだ。


 額の下の窪んだ部分へ向けて、力の限り、ペン先を突き立てる。


「————!!!」


 声にならない絶叫が轟いた。イチゴ果汁にも似た新鮮な血液が溢れ出し、テーブルクロスのように清潔なカーテンをぐじゅぐじゅと汚した。間髪入れずにもう一つの眼球にも突き立てる。まるで涙のような血の流れ方。悪い魔女の最期。


「……ごめんね」


 感触はやけにリアルだった。でも同時に、どこか変にざらついた感じがしたのも確かだった。砂や土の類ではない。劣化した古いビデオに入り込んだノイズのような、そんな曖昧な手触りだ。

 私が震える声で謝ると、怪物は何も言わないまま、ただ指先をわなわな動かしたあと、力尽きた。


「……」


 ヘンゼルとグレーテルが幸せだったのは、その場に二人いたことだ。

 私はそう思いながら、ふらふらと立ち上がり、ペンを思い切り床に投げ捨てた。いくら相手が人食いの化物とはいえ、なにかを殺したあとの後味の悪さは、一人で抱えるには荷が重い。話したい。誰かと。他愛無い会話でいいから。共有した秘密に縛られて、後々お互いに苦しめ合って、憎み合って生きていくことになったとしても。今この時に話したかった。誰かの軽口が聞きたかった。


「……早く出なくちゃ。ここから」


 自分に言い聞かせるように、なんとかそう呟く。このところずっと私が全部やっている。記憶が飛ばない。時間が均等に流れている。病気が治ってきているのだとしたら、それは喜ぶべきことなのだろう。でもこんなことに、一体どんな意味があるというのだろう。何もかもが虚しくて、疲れるだけだ。


 でも死ぬのは怖い。痛いのも怖い。


 私は壊れたドアをくぐり、荒れた部屋の外に出た。服が血で汚れて気持ち悪い。病院の薬臭い空気が気持ち悪い。薄暗い廊下の静けさが気持ち悪い。孤独な自分が気持ち悪い。

 何もかもが、気持ち悪い。






 



 

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