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「さて、どこからお話ししたものかしら……」
ジェーンはグラスの縁を指でなぞりながら呟いた。ウォーターサーバーから汲んだ綺麗な水が、朝の光を受けてキラキラと光っている。どことなく静かな湖畔を思い起こさせる光景だった。
「複雑な問題なのですか?」
「複雑といえば、そうです。でも問題というのは大抵複雑なものではないですか?」
「まあ、そうですね。それでも解決が簡単なものと難しいものとがありますから」
依頼人は曖昧な微笑みを浮かべた。
「ええ。そうでしょうね。けれどよく考えてみれば、『解決』ってとても不思議なものじゃありません? そもそもの問題自体が、人間の認識次第で生み出されたり消え去ったりするものであるのなら、解決も問題も、実は表裏一体であるような気がして……」
そこまで話すと、彼女は悪い考えを頭から振り払うかのように首を振った。
「いえ、ごめんなさい。どうか忘れてください。私って昔から、時々変なことを言ってしまう癖があるみたいで」
「気にしないでください。悩んでいるときは誰でも多少混乱するものですから」
この仕事を長いこと続けているとわかるようになることではあるが、目の前の彼女には、悩める女性特有の物憂げな美しさがあった。快活で朗らかな女性の放つオーラが燦々と輝く太陽の日差しだとすれば、こちらはさしずめ水面に映る月の影といったところだろう。俺は手元のファイルを開き、ボールペンを手に持った。
「問題があるとすれば、まずそれは、私の恋人のことなんです。恋人というか、正確に言えば婚約者なのですが」
「なるほど。具体的には、彼のどこが問題なのでしょう?」
「彼は……ほとんど完璧なんです。私にとっては、ですが。あの、時々あるでしょう? 人間は誰しも不完全ですけど、でもこの人は私にとって完璧な人だ、って思うことが」
「彼はあなたにとってほぼ完璧な男性だが、問題があると?」
依頼人が首を縦に振るのを見て、密かにファイルにチェックマークをつける。恋人絡みの相談は、八割方、素行調査と相場が決まっているのだ。浮気にしろ、そうでないにしろ。
「彼は、兄を嫌っているんです。嫌っているというか、会いたがらないんです。私としては、彼は後々私の家族になる人ですから、兄とはできれば仲良くやってほしいんですが。少し兄の話をしただけで、どうも自分とは馬が合わないと決めつけてしまったようで」
「それは確かに困った状況ですね」
「はい。でも、彼も人間ですから、それは当然人との相性の良し悪しはあると思って、無理強いはしなかったんです。仲が良いに越したことはありませんけど、まあ親戚同士でもあまり仲が良くないなんて、別に今時珍しくもありませんし。でも最近、彼の態度がちょっとよそよそしいように感じてきてしまって……。それが兄の話を持ち出したせいなのかはわからないんです。でも、一度気になってしまったら、もう、どうしようもなくて」
女性の依頼人は、怒りか悲しみ、どちらかの感情に飲まれることが多い。話しているうちに感情が高ぶってしまうのだろう。けれどその点、ジェーンはかなり強いほうだった。ほんの一瞬、今にも泣き出しそうな顔になったものの、ぐっと堪えて鼻先を少し擦るだけで事を収めてしまった。立派な女性だ、と俺は内心感心した。
「なるほど。だいたいのいきさつは把握できました。率直に申し上げて、これはかなりよくある事案です。もし匿名をご希望でさえなかったら、すぐにでも解決できるケースだと思いますよ」
「ああ、ええ。当然そうでしょうね……」
「立ち入った質問になってしまうかもしれませんが、どうしてもご自身のお名前を出せない何か特別な事情がおありなのですか?」
そう尋ねると、ジェーンは何かを口をついて言いそうになったが、ハッとしたように言葉を喉の奥に押しこめてしまった。強引に飲み込まれたそれは、なおも胸の外に逃れようとしてうごめいている風に見えたが、しばらく待っても、ついぞ一言も出てくることはなかった。彼女は大きく息だけを吐き、決心したようにテーブルの上で両手を組んだ。
「……探偵さん。私、ほんとはお話したいんですよ。本当にです。だって洗いざらい、開けっぴろげに全部話してしまえば、話は断然わかりやすくなりますものね。でも、でも、それがかなり難しい立場に私は置かれているんです。我が儘を言っていると思われているのは重々承知しています。ええ。そうでしょうとも。私は頼まれもしないのにやってきて、でも話せないなんて言っているんですからね」
俺は静かに首を横に振って見せた。
「我が儘だなんて少しも思っていませんよ。話したくないことや話しにくいことは、誰にでもあることです」
「誰にでも?」
彼女はそのフレーズを反芻した。どこかせせら笑うような、ひとりごちるような言い方だった。
「確かに誰にでもあるかもしれないけれど、でもどうなのかしら。話しにくいことにも、やっぱり程度というものがあるわ。体重のことだとか、体質のことだとか、私の秘密がそんなことであればどんなに良かったか……ただ自分が一時恥を忍べば済むような話なら……」
ジェーンはそう言うとしばらく片手で目元を覆い、俯いていた。俺はかける言葉もなく、ただ途方に暮れて見守っていた。やがて彼女は顔を上げて、にこりと微笑んだ。
「本当にごめんなさい。できたら、さっきの言葉は忘れてほしいのだけれど。ご気分を害されたでしょうね」
「いえ、大丈夫ですよ」
「また私がここに来たらご迷惑?」
「迷惑だなんてことはありませんよ。探偵の仕事は人助けですから」
俺がそう答えると、彼女の笑みはさらに深くなった。ヘーゼル色の瞳の片方から、音もなく涙が一筋溢れた。
「来週の同じ時間に、また来てください」
そう告げたのは無意識のうちのことだった。ただ、そう言わなくてはいけない感じがした。俺はかつて、同じことをきっと誰かにしているのだ。美貌の依頼人は、湖の岸辺から飛び立つ白鳥のように、静かに去った。帰りがけに羽織った彼女のファーコートの白い毛が、空中に少しだけ残って、妖精のように辺りを舞っていた。脱力して背もたれによりかかかりながら、じっと眺めていると、ピーッと電子音が鳴る。コーヒーが出来上がったようだ。芳醇な香りが漂ってくる。だが動く気になれなかった。そうやって黙って座っているうちに、彼女のほのかな残り香は掻き消された。
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