第5話
先生の話はまだ続いていた。不思議な感じがした。先生というのは、根拠のあることを喋るものだと思っていたのに、このひとはどちらかというと、自分の信じることや信じたいことだけを話しているように思えた。別に構わないが。私にはどのみち何もわからない。
「だからつまりね、市ノ瀬さん。僕は一つ提案をしたいわけだ」
「提案?」
「君に、『物語』というのがどんなものか、知ってもらいたい。だからこれをね」
そう言って先生は、音楽再生プレーヤーのような黒い小型の機械と、安っぽいイヤホンを手渡した。
「これを?」
「これをつけて、この診察室の隣の部屋で、今日一日過ごしてくれ」
「これは?」
「この診察室の中の音声を聞くことができる機械だよ」
つまり早い話、盗聴器というわけだ。
「どうしてこんな……盗聴じゃないんですか、これ」
病院に来て、犯罪の片棒を担ぐような真似をさせられたのでは、さすがに困る。私が問いかけると、先生は少し気まずそうに答えた。
「精神医療の分野にはねぇ……まだ、これといった効果的な治療法がないんだよ。薬を出してあげることはできるけど、でも、それだけさ。みんな薬に依存するようになるだけで、根本的には何も治療されない。中にはそういった依存を恐れて、薬を飲もうとしない患者も大勢いる。飲まなきゃ飲まないで、周りの人間が迷惑を被るだけなのにねえ。とにかくそういうわけで、僕は、君への治療としてこのアイデアを思いついた」
「思いついた、って……」
思いついたからといってそれを試していいことにはならない。多分そのはずだ。先生はボリボリと頭を掻く。
「特に君の、その手の病というのはね。特に微妙なラインなんだ。病気と性格の間、とでも言えば良いのか。だから、まあ、試してみようじゃないか」
そんなことを言われ、私は促されるまま、診察室を後にした。さっきとは別の看護師に連れて行かれたのは、診察室の隣の小部屋だった。真っ白の壁に、子供が描いたような魚の絵がたくさん貼られてある。青いカーテンに、光が透けて、まるで海の中のように揺らいでいる。
「またしばらくしたら、休憩を入れましょう。私が来るまでは、イヤホンをつけて、会話を聞いていて頂戴ね。気づいたことはこのノートにメモしてね」
ノートと鉛筆を渡されて、部屋に一人ぼっちになる。イヤホンをつけると、ザーッとした音しか聞こえなかったが、しばらくするとガチャリとドアの開く音に続いて、見知らぬ誰かの会話がラジオのように流れ出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます