第4話
洗面所には鏡がなかった。当然あるはずと思っているものが、いつもあるはずのところにないというのは、やはり奇妙なものだった。理由は薄々察しがつく。破片で自傷行為をする人がいるのだろう。私はそんなことをしたいとも、発作的にしかけたことでさえおそらくなかったけれど、それでも鏡がないのは好都合と言えた。こんな惨めたらしい自分をいくら眺めたところで、落ち込みこそすれ、気分が良くなることはない。
「はい、どうぞ。櫛とタオルと歯ブラシです。顔剃り用の安全剃刀も一応あるけど……まだ必要なさそうですね」
私は黙ってそれらを受け取り、身支度を整えた。髪の毛が思ったよりも短くなっている。いつ切られたのかなんて覚えていない。でも知ったところで意味もない気がした。肩までになった髪を、簡素な櫛で梳かし、顔を洗い、歯を磨く。口をゆすいで、水を吐き出す。生ぬるくて清潔な水だった。
「終わりました」
「はい。お疲れ様でした。じゃあお部屋に戻りましょうか。朝ご飯は……あら?」
ピピ、ピピ、という電子音がどこかから鳴った。看護師が袖をまくり、手首につけた腕時計のようなもののスイッチを押した。少しの間、その腕時計じみたものに目を落とした後、彼女はこちらに向き直って言った。
「ごめんなさいね、ちょっと予定変更があったみたい。このまま診察室に向かいましょう」
「はあ。そうなんですか」
私は目覚めてから一度も時計を見ていなかった。だから、朝食の時間が遅れたことを悲しむべきかどうかもわからなかった。窓から陽の光は入ってきていなかった。けれどそれはただ日当たりの問題だとも考えられた。朝ご飯は、白米と味噌汁だったらいい。味噌と出汁を溶かしたものを、だいぶ長いこと口にしていないような気がする。貝の味噌汁なら嬉しい。あの味が恋しい。おかずはなんでもいい。
そんなことを考えながら、再び看護師の後について廊下を歩く。
「やあ。朝早くから、すまないねぇ」
髭を生やした体格の良い男の医者が、診察室で私を出迎えた。彼の体重を支えている回転椅子が、わずかに軋みながらこちらに近づいた。私は患者用のプラスチック製の椅子に座って、少しだけ周りを見回した。
この診察室は、普通の内科のそれとほとんど同じに見える。白を基調とした小部屋。病気予防を啓発するポップなポスターと、子犬の写真つきカレンダーの貼られた壁。デスクの上の置き時計は、アナログ式で8時半を指していた。
「お腹が空いているだろうに、ごめんね。市ノ瀬さん」
声の調子は優しげで、でも不思議と好きにはなれない声だった。穴熊というか、とても大柄な、のっそりした熊のようだ。静かで安全な山奥に住み、日がな一日木の実や魚なんかを食べ、時折いたずらに町に降りて田畑を荒らしてみたりする、人と相容れない森の獣。
「いえ、大丈夫です」
「本当? 無理しなくてもいいんだよ。ここは心を治すための病院なんだから」
「病院ですか」
「ああ。だから君の思ったことを、そのまま言ってくれていいんだよ」
のっぺりとした言葉だった。聞く人が聞けば、それができたら苦労しない、と怒り出しそうなセリフでもある。
「はあ。そうですか。でも本当に大丈夫です」
「遠慮しないでよ。だいたい本当に大丈夫だったら、こんなとこに来てないんだから。でしょ?」
「そう、なんですか」
「市ノ瀬さん。ぶっちゃけ言うと君は、ここの入院患者の中でも、特別な患者なんだよ。まあ、患者さんはもちろん全員大事なんだけどね、君はその中でも特に、ってことだよ」
「はあ」
私が特別だということと、この人の人生とに、一体なんの関係があるのだろう。こういうことを考えていると悲しくなってくる。早く朝ご飯が食べたい。
「私の何が特別なんですか?」
「君にはね、『物語』がないんだよね」
「物語?」
抽象的な話は苦手だ。学校で習う数学や国語の問題といった、ある程度の区切りや終わりのある抽象問題は平気だけれど、そうでない場合こういった話は大抵延々と続き、終わりがないように思えてげんなりする。
「物語ってなんですか?」
「例えば、桃太郎ってお話があるでしょう。桃太郎は、まず桃から生まれて、それからおじいさんとおばあさんに育てられて、鬼退治に行って、宝物を持って帰ってくるわけじゃない」
「はあ」
「そういう風にね、人には必ず自分の物語っていうものがあるんだよ」
「そういうものなんですか?」
人体には心臓がある、肺がある、骨がある。
そういう理科の知識と同じような調子で、医者は言い切ったものの、「物語」なんて目に見えないのにどうしてそうだと言い切れるのだろう。けれど、
「そういうものなんだよ」
と言われたので、そういうものだと思うことにした。
「でね、心の病っていうものは、この『物語』に不具合が起こることで生まれるんだ」
「不具合?」
私は首を傾げてみせた。まるでパソコンか何かの話のようだ。
「ああ。桃太郎の話で言うなら、桃太郎は本当は桃から生まれたのに、おじいさんとおばあさんが嘘をついて『橋の下から拾ってきた子供だ』と言い聞かせていたらどうなると思う?」
「え……えっと、わかりません。悲しくなるとかですか?」
「ははは。これはあくまで例え話だからね。わからない、で正しいよ。まあ話がどうなるにせよ、桃太郎は桃太郎ではなくなってしまうよね。その時点で彼の物語は変わってしまうんだ」
「なるほど」
でも考えてみれば、そもそも、なぜ桃から生まれたからといって獣を引き連れて鬼を退治しに行かなくてはいけないのだろう。特別な人間には特別な使命がある、ということの暗示なのだろうか。そう考えるとわからないこともない気がしたけれど、橋の下から拾われてきた子供でも、別に鬼を退治して英雄になったっていいじゃないか、とも思えた。
「じゃあ、桃太郎の話から離れて、もっと現実に近い話をしてみよう。大企業の社長の息子として生まれた男がいたとする。彼は子供の頃からずっと、自分が次期社長になると信じていた。でもそうならなかった。父親は息子よりも優秀な社員を後釜に選んだ。彼の中で、彼自身の物語が変わってしまった。小さい頃から信じてきた物語が、粉々に崩れ去ってしまった。彼は心身に異常をきたし、アルコール依存症になってしまった……僕の言いたいこと、わかるかな?」
「えっと、はい。なんとなく」
どんな問いであれ、大人の問いかけには常にきびきび答えなくてはいけないという思いが私にはあった。はいかいいえ、よくわからなくても、とりあえず答えておく。大人はそれが合っているかどうかなどそこまで気にしない。ただ自分が尊重されているかどうかだけが大事で、取るに足らない年下の人間から一瞬たりとも敬われないことがあるだなんてそれこそ一大事なのだ。
「この彼は、この壊れた物語に固執している限り、ずっと病気のままだ。もともと物語にも、脆い物語と頑丈な物語の二種類がある。この彼の場合、自分が社長になるという筋書きの根拠は、父親との血縁関係だけだった。つまり最初からとても壊れやすい……脆い物語だった。僕たち精神科医や心療内科医の仕事はね、こういった患者さんの病んで壊れた物語を、もっと頑丈でポジティブなものに変えてあげることなんだよ」
「なるほど」
なるほど。この相槌を打つとき、私はいつも自分の滑稽さに笑いそうになる。もちろん実際笑ったことはない。でも私ときたら、全く何もわかってなどいないのだ。望まれている半分ほども。
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