第3話



「起床の時間ですよ、市ノ瀬さん」



 心臓を捻り上げられるようにして、目が覚める。背中に硬いベッドのマットレスと、温いシーツの感覚がある。手枷も、足枷も、どこにも、ない。おずおずと、ゆっくりと、全く自由な手のひらで、シーツを撫でる。滑らかで清潔なリネンの感触。


「……はい」


 機械的に返事をして、上半身を起こすと、自分が病衣を着せられているのに気づく。白く、無機質で、動きづらい。見回すと、一人用ベッドが入るのがやっとのような空間に、外もほとんど見えない狭い窓が一つ付いたきりの、独房のような雰囲気の部屋に私はいた。どうせ、結局のところは、あの窓も数センチしか開かないのだ。それにしても、独房……と呼ぶにはあまりに綺麗で、清らかで、整然としすぎている。どちらかといえば、棺桶の内部のそれに近い。柩に入ったことはもちろんないけれど、そう感じた。独房や刑務所のほうがまだ、生命力があるというものだ。たとえ暴力や醜悪な汚れ、絶叫――またはその残滓でも。

 生の力のなれの果てには違いない。


「さあ急いで。朝食を摂ることが、健康への第一歩ですよ。太陽の光も浴びないと。セロトニンが出ませんよ」


 声は、ドアの向こうから聞こえてくる。女性のものだ。ドアには目の部分だけ開く引き戸の小窓がついていて、そこがまさに今開いていたが、私のいるところからは相手の目さえも確認できない。でも確かにそこにいるのだろう。誰かが。

 ベッドから出ると、申し訳程度のサイドテーブルの上に、衣服が置かれているのに気づく。見覚えのある、つまらない、服。まるでとりあえずつければいいやとでも思っているかのように、簡素な飾りが、およそ美的にありえない位置に投げやりな数だけついている、地味でも派手でもないトレーナーと、とりあえず何回も着られる丈夫さ以外に褒めるべき箇所のない、微妙に窮屈なジーンズ。父と母は、何を思ってこれを私に買い与えたのだろう。決まっている。何も考えてなどいないのだ。

 病衣を脱ぎ、それに着替える。でも、自ら選ぶこともできず、ただ与えられたものを着ているだけという点だけ見れば、今のこの病衣姿とさほど変わらないとも言えた。脱いだものを軽く畳んで、テーブルの上に戻す。


「準備できましたか、市ノ瀬さん」


 市ノ瀬さん、と呼ばれるのは、ひどく久しぶりな感じがした。久しぶり……久しぶり? そういえば、今は一体いつなのだろう。私は何歳で、ここはどこなのだ。

 どうして私はここにいて、これから一体どこへ行くのだろう? 

「どこに行くんですか? これから」

 ドアを開ける前に尋ねると、女性は答えた。

「洗面所です。顔を洗って、髪を整えましょう」

 なんでもないことのように、彼女は言う。私のことをもう知っている風だったのに、私がいきなり奇妙なことを聞いても、怪訝な顔ひとつしない(顔は見えないが、声の調子からして、明らかに違和感を抱いていない)。なんとなく、私は悟る。私の言葉は、おそらくはじめから、この人の中で「言語」としては正しく機能するべくもないのだ。病人のたわごと、奇をてらったレトリック、寂しい人間が周囲の気を引くためにする哀しいパフォーマンス。そんな機能の音としてしか認識されていない。それはもはや言葉ではない。音でしかない。地を打つ雨音、鳥のさえずり、木を揺する風のざわめき。そんなものと一緒。真面目に受け取るのも意味のない、でも時々戯れに気に留めてみて、人間的な詩を考えてみたりするのにうってつけの、そんな環境音。無力で、使い勝手の良い。


「いや、です」


 ふと、口から否定の語句がこぼれる。屋根から雨樋に溜まった水が落ちるように。でもやっぱり、手応えはない。

「市ノ瀬さん。どこか、特別具合でも悪いの?」

 形式的な気遣いの言葉が、無機質な目元から発せられる。

「ああ……はい。たぶん」

「そう。熱っぽい? 頭は痛い?」

 つかの間答えを言い淀むと、すかさず彼女は言葉を続ける。

「もしできそうであれば、一緒に先生のところまで行きましょう。どうしても無理そうだったら、ここで待っていてもいいけど。どうする?」

 わずかに早口で、急かすように、語気強めに言われた。反射的に、答えている。

「えっと、大丈夫です」

「そう。じゃあ先生のとこにすぐ行く? 朝ごはんは食べられそう?」

「食べ、られます。はい。たぶん」

 私は(私も)早口にそう返した。迷惑そうな口調の奥に、敵意を感じた。例えるならそれは、自分のためだけに設えられたはずのスポットライトを、突然、不当に奪われた主演女優の、身を焦がすような狂おしい苛立ち。そんな映画を見たことがある。若い歌姫に注目が集まるのが気に食わなくて、拗ねてしまったプリマドンナを、男たちや女たちがこぞって褒めそやし、その気にさせる。ああ、プリマドンナ。全世界があなたに跪く。考えてください、観客たちのことを。

 ドアは内側からは開かなかった。ノブを掴んでがちゃがちゃと何回か鳴らすと、外側から鍵が外された。外の通路に出ると、「こっちを向いて」と声をかけられ、額に機器を当てられる。数秒の後、「熱はないみたいね」と告げられる。


「あとでまた具合が悪くなったら、教えてね。いい? 市ノ瀬さん」


 雰囲気は疲れてはいるけれど、全体的にはとても綺麗な女性だった。化粧品の匂いがする。白い看護師服の上に、薄桃色のガウンを羽織って。整った爪。人間。間違いなく。最低限度、それか中程度の文化的生活を送っている。送れている。私と違って。

「はい」

 きっと彼らは気のせいだと言うだろう。私が人以下で、あなた方が人間で、私は自分自身のことを、人間に手綱を引かれてどこへでも動かされていく、家畜動物のように感じるのだと言ったなら。「あなたはれっきとした人間で、何も引け目を感じる必要などないんだ」と。何の疑問もなく、さながら敬虔なキリスト教徒が聖書の一節を唱えるがごとき容易さで、彼らは、子供時代から変わらないであろう浅薄な笑いを浮かべる。暴力的なくらい単調な経験則に脳髄まで刻み込まれた教訓。そう思ってしまえるのは、そう確信を持って断言できるのは、それ自体が、いつだって人間側の思考である証だった。

「まずは、洗面所に行きましょう」

 歩き出した看護師の後について、私は重い足を動かす。罪人のようだった。もしくは実際に、私は罪人であるのかもしれなかった。自分が忘れているだけで。

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