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「天賦のこと、生まれつきの才能のことなど語るな。天賦のなかった偉大な人物はたくさんいる。彼らは偉大な能力を獲得し、いわゆる天才になったのである」


 コーヒー豆を挽いている最中、ふとそんな声が聞こえた。そっとソファの様子を伺うと、背筋を伸ばして座った長髪の女性が、テレビを眺めている横顔が見えた。端正な顔立ちに、陶器のように白い肌。癖ひとつない滑らかなブロンドの髪が、朝の真新しい光を浴びて、天使の輪を作っている。

「それは……誰の言葉なんですか?」

「ニーチェです。兄が熱烈な信奉者なもので。昔から事あるごとに、彼の著書を引用するので、私もすっかり覚えてしまいました」

「そうですか。なかなか教養の深いお兄様ですね」

 深煎りして粗めに挽いた豆の上に、冷やした軟水を垂らし、マドラーで混ぜる。上質な香りに、知らず笑みがこぼれていた。朝のコーヒーの香りほど、人を幸せにするものはないだろう。美しい女性が一緒であれば尚更だ。

「本当にごめんなさい。こんな朝早くから、アポも取らずに押しかけるような真似をしてしまって」

「いやいや、気にしないでください。人助けが、探偵の本分ですから。それに今日はちょうど、一日暇な日でしたからね。タイミングが良かったですよ」

 どうやら突然やってきた美貌の依頼人は、ニュース番組を見ているらしい。というより、彼女が訪れる直前まで見ていたテレビを俺が付けっ放しのままにしていた、というのが正しいだろう。『驚異の記憶力を持つ天才少年現る』——テレビ局がネタに困ったときにやる話。世間が忘れた頃にひょっこり再来しては忘れ去られていく、眉唾物の滑稽な神話。

「あなたほどの高名な探偵さんにも、お暇な日が?」

「ええ、まあ。この仕事も、意外ときついですからね。週に一日か二日くらいは、サボる日を作ってますよ。息抜きのためにも」

「あら。だったら、尚更悪かったかしら。せっかくのお休みの日に来てしまって」

「気にしないでください。正直、いつも機械的に休んでいるだけで、本当に気が休まることなんてないんです。むしろ仕事をしていた方が落ち着くくらいですよ」

 十分に湿り気を帯びたコーヒーを、スプーンですくってフィルターに移す。抽出時間をセットして、スイッチをオンにする。水出しコーヒーコールドブリューは熱湯で淹れる普通のコーヒーとは違い、少し抽出に時間がかかるものの、渋味の原因であるタンニンやカフェインが溶け出しにくいため、コーヒー豆本来の味や香りを味わうことができる。

「それなら、良かったのですけれど……私、本当に困っていたものですから」

「そうですか。まあ、人助けとはいえ、うちは警察でもなんでもありませんのでね。そんなに深刻な問題でしたら然るべき機関に相談なさった方がよろしいかと思いますが」

「いえ、いえ、とんでもありませんわ。別に警察沙汰ではないんです。ただ、困っていた、というだけなんです。身近な人との関係のことで、ほんの少し」

 ガムシロップとミルクを用意し、依頼人のテーブルに持っていく。澄んだ瞳にわずかな不安が浮かんでいる。

「一介の探偵風情でお役に立てることでしたら、なんでもおっしゃってください。ええと……失礼、お名前はなんて?」

「ジェーンです。苗字は伏せさせてください。お金は前払いでお支払いしますから……まあ、優秀な探偵さんに身元を隠すなんて、無意味なことなんでしょうけれど」

 俺はつと動きを止めて、依頼人の方を見た。

「すいませんね、ジェーンさん。探偵への依頼は、原則的に匿名や偽名ではできないんです。情報が悪用されるのを防ぐための決まりでしてね。相談だけであれば、本名を出して頂かなくても大丈夫なんですが、本調査となりますと」

「そうなんですか? どこの探偵社も?」

「ええ、まあ、合法的なところであればおそらく全て。違法な手段を使う探偵も存在しないとはいえませんが、そういった業者に頼んだところで、恐喝やら漏洩やらで、余計に心配事を増やすだけですよ」

「ああ、神様。どうしたものかしら。じゃあ……相談だけなら、大丈夫なのね?」

「ええ。契約には実名が必要ですが、相談には不要です。秘密はちゃんと守りますよ」

 安心させるように微笑んで頷いてみせると、ジェーンはにこやかに会釈を返した。

「それではどうぞよろしくお願いします。柊木さん」

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