究極の選択

麻城すず

究極の選択

 部活を終えての帰宅は大抵七時近くになる。いつもどおり家の中は真っ暗で閑散としているだろうと思っていたら「お帰りなさい」の声と、光溢れるダイニングから漂う美味しそうな匂いが迎えてくれた。

 共働きの我が家。両親共に正社員でフルタイム勤務。それでも小さな頃はまだ母が定時に帰ってきていたけれど、私が中学に上がってからは残業をこなすようになり、こんな風に食事が用意されるのは母が休みの日だけになった。

「今日はどうしたの。二人とも仕事だったんでしょ」

 ほわりと温かい室内には両親が揃っている。マフラーを外しながら聞くけれど、ソファに腰掛けた父は広げた夕刊に目を落としたまま答えない。母はキッチンの換気扇の音で、私の問いに気付いてすらいないようだ。

 テーブルに並ぶメニューに気付いて苦笑する。一体誰の誕生日だと思うほどに様々な料理が並ぶ。ハンバーグやフルーツサラダ、ミートソースのスパゲティ、それからホウレンソウのキッシュだとか、そんな中に何故か太巻きまで。

 少々幼く節操がないが、共通点はある。どれも私の好きなメニュー。

「今日はユリの好きなものばっかりよ。ママ腕によりをかけたんだから」

 さらにミートボールのシチューを運びなら母は笑う。

「なんで」

 食卓に置かれたまだ湯気の立つ料理を目の端に捕らえながの私の問い。並ぶご馳走に気持ちは沈んでいく。

 これは前触れだ。母は昔からそうだった。大切な話をするときには、必ず私の好物を食卓に据える。そして切り出される話は、大抵ろくなものじゃない。

「ユリ、話は後よ。さ、座りなさい。あなたももう新聞はお終いにしてちょうだい」

 黙って新聞を畳んだ父は、一言も発せず、私の方を見ようともしない。その分母が明るく振る舞う。それが、小さく燻る私の不信感を増長していくことにも気付かぬように。

 促されて口に運んだスパゲティは懐かしい味がした。インスタントでない、母のオリジナルレシピはひき肉よりも玉葱が多くて優しい甘みがある。

 これを前に食べた時のことはよく覚えている。中学に上がる前の春休み、父は仕事でまだ帰っていなかったので母と二人の夕食だった。

「ねぇユリ。ママ、お仕事をもっとちゃんとしたいのね。パパみたいにバリバリ仕事して会社の人に認めてもらいたいのよ。これから帰りが遅くなっちゃうかも知れないけどいいわよね」

 私の反論なんて聞こうともしなかった。

「中学生になるんだからわがまま言わないで」

 じゃあ私の意見も聞かずに勝手に決めるあなたはわがままじゃないんですか。

 それを口に出すことは出来なかった。まだ幼かった頃、私の中で母は絶対だった。

「ねぇ、何か話があるんじゃないの。こんな機嫌取りみたいなことしなきゃいけないような深刻な話」

 あれから五年が経つ。私はもう物分かりのいい子供じゃない。だからこんな風に聞くことだって平気。

 とはいえ、平静を装えたのは表面だけで内心は酷く動揺していた。私の一言でひたすら食べ物を口に運んでいるだけだった父が顔を上げ、笑っていた母はどこか逃げるような目線になったからだ。

 生まれた沈黙に耐えかねて、私はシチューをすくい上げる。スプーンが口に触れようとした時、

「離婚するわ、私達」

 母のか細い声が耳を突き抜けた。

「ママね、もう新居も用意してあるの。明日とは言わないまでも、なるべく早めにここを出たいと思ってる」

 文字通りだ。耳を突き抜け逃げていく言葉の羅列。理解する間も与えぬように。違う。理解する時間はある。ただ、私の感情がそれを拒否する。そんな話が出ることに、薄々気付いていたにもかかわらず。

「ユリはどうする? 良かったらママと来ない?」

 即答できる訳がない。どうしていいのか分からずに私は、口に当てていたスプーンの上のシチューを啜った。ズッと間の抜けた音を立てて。

「受験もあるし、こっちがいいなら無理強いはしない。あなたももう子供じゃないんだし判断は任せるから」

 時折あった。夜中に二階の自室まで聞こえて来る二人の話し声。決して激しくはないけれど、深刻さは伝わってくる。度々繰り返されるそれに、詳しいことは分からないまま私の不安は募っていった。その結果がこれってこと。

 父がようやく私を見る。

 仕事人間だから家族との関わりは希薄だ。だからきっと、今の私に対してどうしていいのか分からないのだろう。それでも見返す私から目を逸らさない。誠実な人だ。

 詰め寄るように身を乗り出している母。判断は任せるといいながらも瞳には陰りが見える。まるで怯える子犬のよう。

 多分きっと、二人はちゃんと私を大事に思ってくれている。

 一緒に暮らすなら、同性の親の方がいい。だけど母を選んでしまったら父は? 家のことを何にもできない父を一人きりになんて出来ない。

 二人とも普段忙しくて構ってくれなかったけれど、その分一緒にいられる時はとても優しかった。休みの日に特別何かをすることもなかったけれど、些細な日常の中からも伝わってくるその愛情。

 分かっているから分からなくなる。私がどちらを選ぶべきなのか。

「……私は二人に別れてほしくない」

 二人の望む答えはこれじゃない。けれども、全てに正しい答えがあるわけじゃない。

 答えを出せない選択。突き付ける理由は愛情。難しくても、辛くても、譲れないのは何よりも大切だから。

「ユリ、すまない」

「勝手なこと言ってごめんね」

 二人の声が揺れる、震える。だから答えがますます遠ざかる。

 どちらを選んだとしても、私の望むものはない。どちらを選んだとしても、きっと私は後悔する。

 その選択を突き付けた父と母に、取り去れるわだかまりを残したまま、きっと。

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究極の選択 麻城すず @suzuasa

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