送り出す日

 愛染の家に、真紀那が帰ってきた。

 まるで眠っているような、穏やかな死に顔だ。それは画面の奥で見た聖母の顔だった。十六歳の少女には、およそ不釣り合いな慈悲に満ちた笑みである。

 真司が立つ彼女の左腕には普通に見るだけでは分からないが、凝視すると腕が縫合されている。真紀那の白い肌によく馴染んだ、細い縫い痕がそこにある。彼女の服装は当時と同じ、所属校の清楚なセーラー服だった。昼下がり、柔らかい光が差し込む愛染家のリビングに、彼女は照らされた純白の棺に収まって眠っていた。

 舞弥は耐えきれずその場に崩れ落ちた。数人の女性の嗚咽がリビングに広がる。空間に浮かぶ悲哀とは裏腹に、真紀那の微笑みはずっと変わらずそこにあった。真司も俯き、目を離せずにいた腕の縫合痕を服で覆い隠そうとしたが、半袖のセーラー服は、それを許しはしなかった。


「これからお坊さんが来てお経唱えるから、それまでにはここに来るんだよ。時間までなら何してても構わないから」

 真司の母がキッチンから言う。その手には色とりどりの花が、洗われてみずみずしく咲いていた。

 舞弥は一本ずつ、側に並んだ真っ白な百合の花を真紀那の側に添えていた。花が添えられる度に微笑む真紀那は一段と美しくなっていく。しかし目覚めることはなく、ふと手が頬に触れると、使われていないストーブのような冷たさが皮膚を襲う。真紀那の体温をそうして実感してしまう度に、舞弥は手を引っ込める。その瞳は濡れ、溢れて泣き出すのをじっとこらえていた。

 真司はその様子をソファに腰かけてずっと見ていた。何も考えていなかった。否、考えるのが怖くて避けていると表した方が正しいだろう。ただただ真紀那の死を嘆き、今日という一日が終わるのを待っていた。

 父が教えた、法事の日程を頭に浮かばせる。通夜は明日だ。ちゃんと喪に服す時の服を着て、葬儀場にてきっと彼女らしく微笑む真紀那の遺影を見れたなら、自分は雑念を取っ払って彼女を送り出せるだろうと、そう考えていた。


 真実。頭からどんなに追い出しても離れないその二文字。


 この言葉が指すものは、彼女が言ったこの国の大いなる秘密か、或いはそんな彼女の真相か。どちらでも構わないが、真司がこの言葉から逃げようとしているのは自身でもひしひしと感じる事実で、弱さだった。

 今でも真司の目には、彼女がよく知る真紀那でないように見える。これから真実を暴いていくと、それは加速していくのではないかと予感もしている。

 ――だが、僕はそれから目を逸らした。

 舞弥の絞りだしたように告げられた決意を思い出す。思い出す度に、真司の心臓の近くが何かに握りしめられたように詰まり、息苦しさを感じた。――自分は弱い。自分で思っていた以上に脆弱であったと実感する。それは昨日までの自分自身をも裏切る行為でもあり、今抱える罪悪感に拍車をかけていた。前を向いて進まなければいけない。しかし、恐怖は打ち勝てないほど大きく。このまま色々とあやふやなままことが終わってくれたら、と祈ってしまう。

 太陽は傾き始め、世界は夕焼けに染まりつつあるが、今日という日はまだ終わりそうにない。未だ明るい空を窓から眺め、時間を浪費した。


「あんた達何かやりたいこととかないの?何か飲みもんとか欲しいなら買ってきていいんだよ」

「あ、私は何も……」


 母が子どもたちを呼んだ。そこには洋風の部屋には不釣り合いな仏壇が既に拵えられており、空いたスペースには少し洒落た皿が置いてある。「何も用事がないんなら、お供えのお菓子とか買ってきてもらおうかと思ったんだけど」

「あ、じゃあ僕コンビニ行ってくるよ。舞弥ちゃんなんか欲しいのとかある?」

「え?うん……、特には……」

「分かった。ねえ母さん、晩御飯のときとか父さん達お酒飲むかな?」

「うーん分かんない。買わなくていいんじゃない?」

「はーい、行ってくるね」

「いってらっしゃい……」

 今年の夏は少々涼しい。薄雲に遮られる太陽は、息をひそめるようだった。





 七月十七日。愛染真紀那を送り出す、通夜の日。

 喪服に身を包んだ老若男女が行き交う葬儀場のエントランスホールは、普段なら粛として足音の響きやひそかな談笑が冴えわたるのみ。しかし愛染家は、そうして他の家々と同じように静かに家族を弔うことを許されなかったようだった。

「……やっぱ来てるか」

「来てるって……あれですか」

「そう、マスコミ。そんな話は何度か聞いたことあったけど、あいつらマジでゆっくり弔わせてくれねぇんだな」

 自動ドアが開かない程度にばらつき、大きなカメラやマイクのような録音機を持った集団がざわざわと、静粛を土足で踏み荒らしている。真司と歳の近い親戚、りょうが式場からそんな外を覗き込むが、幸いなことに彼らが隠密に動かなくとも彼らは気付いていないようだった。

「外出れねぇなこれ……どうしたもんか」

「この建物から出たら一発ですよね……」

「一発だなぁ」

「……もしかしたらここから出る……エントランス出るのも危ない?」

「いや流石にこの敷地内は自由に歩かせてくれるだろ、……歩かせてくれるはずだろ、多分だけど……」

 了はぶるりと震え、ほんと非常識だな、と彼らに向かって吐き捨てた。

「……?ねぇねぇ真司さん了さん」

「お?どうした舞弥ちゃん」

 そんな彼らの元に、何か気になった様子で舞弥が寄ってくる。彼女の様子は概ね良好で、昨日や一昨日よりは持ち直したように見える。

「あの子は……マスコミって現場に子供連れてこれますっけ?」

「え?あ、ほんとだ、あんなちっちゃい子供も……」

「……いや、違う。後ろの人、多分お母さんだと思うんだけど……マスコミじゃない。何なら僕らと同じように喪服を着てる」

 それ以外にも、よく見るとマスコミの塊にはいくつか不審点があった。どう見てもマスコミとして働いていないだろう老婆もその中にいた。何十人と居そうな塊の中でそういう人等は片手に収まる程度しかいなかったが、彼らは何故か共通して、親族と同じように喪服を着ていた。それも、本来ならば親族が着るような正式礼装を。

「……何で?あんな人達、知らないけど……」

「……ちょっと行ってみる」

「え?おいやめとけ真司!あんなとこ飛び込んだら圧死するぞお前!!」


 自動ドアが開き、外の湿って生温い空気がふわりと真司を覆う。――空気が真司を覆う前に、マスコミが彼を取り囲んで覆った。

「愛染真紀那さんのご親族ですか!?葬儀にはどういった心境で――」

「真紀那さんの自殺について何か思うことは――」

 真司に外野のガヤは聞こえない。人の壁は厚く本当に押しつぶされてしまいそうだが、それでも強引にかき分け、危険を冒してまで外に出た理由へ――喪服の老婆と、まだ小さな幼女の元へ――と、進んでいった。

 真司を目の前にした老婆は、曲がった腰を上げ、目をしっかり開いて彼を見た。

「これはこれは――貴方様は、真紀那様のご親族で?」

「……貴方達は誰ですか。どうしてここに来たんですか?喪服まで着て……」

 問いかける真司に、舞弥も遅れて辿り着いた。ふと、幼女と目が合った。小さなぬいぐるみを抱え、母らしき女性の腕が肩に置かれている。舞弥と同じほどの背丈をした女性の腰にも背が届かない、小さな少女だ。しかしその目ははっきりと舞弥を視認していた。女性を見ると、彼女も俯きつつも、舞弥を見ている。彼女たちを代表するかのように、老婆が一歩前へ出てきた。

「いえいえ……真紀那様が亡くなられたと耳にし、部外者風情でありますが、せめてお傍で弔うことだけはと思いまして……」

「……どうしてそんなことを?」

「真紀那様からは生前、何物にも代え難い施しを戴いた身であるのですよ……ご親族となれば、きっと真紀那様の御意思をお受けになられたはずで御座います……真紀那様を心から愛しておられたのであれば、どうかあのお方の痕跡を辿り、真実について、お考えくださいませ……」

「……」

 老婆の懇願の意図を、真司は理解できなかった。それよりも、彼女を崇高な存在として崇めるような、自分たちが顔も知らない人間がいたことに動揺が隠せなかった。脳裏に昨日見たビラの原稿が過ぎる。


「――真実を、掴め……」

 誰にも聞こえない声でぼやく。


 ――真実ってどういうことだ?この人達は、真紀那の何を知っている?


 冷静に考えようとするが、動揺がそれを阻んだ。

 それは近くでやり取りを見ていた舞弥も同じだった。どことも言えぬ空間を見つめ困惑していると、視界の外から、幼い声が響いた。

「おねえさん」

 喪服のスカートをそっと引っ張る、幼女の声。小さなその手は後ろの女性にすぐに払われたが、幼女は変わらず、舞弥をじっと見て目を逸らさずにいた。

「……どうしたの?」

 少しかがんで問いかけると、幼女は葬儀場の中を、ガラス越しにこつんと指で突く。

「マキナさま、このおうちのなかにいるの?」

「……えっと……」

 答えに迷う。すると今度は頭上から、幼女を制すように、そして問うように声が降ってきた。

「すみません、私達、マキナ様を見送るためにここに来たんです。……子どもも連れてきてしまって……ご迷惑をおかけしました」

「あ、い、いえ、大丈夫です」

 咄嗟に声が出た。しかし女性は少し鮮やかな茶髪を影にしたまま、小さく会釈しし続ける。

「色々、大変なこともありますでしょうが……親族様のご健勝を心よりお祈りしております。誠に勝手ではございますが――貴方様方には、マキナ様がついておられますから。きっとどこかから見守っておいでになられているでしょう」

「はあ……」

「……それでは、失礼いたします」

 女性はもう一度礼をすると、真司と対話する老婆を連れてその場を去っていった。奇妙な時間だった。まるで、現実でないような。そんな二人を、取り囲んでいたマスコミが流れ出て現実に引き戻した。





 通夜は無事に終わり、夜、別室にて通夜振る舞いが行われた。

「あの人達何だったんだろう……すごい怖いんだけど。宗教団体の人?」

「ね……何で真紀那ちゃんのこと様付けで呼んで……」

「お前たちまだその話してたのか?まあまあリラックスして、何か食えよ」

 会場全体が藹々と談笑で盛り上がる中、真司と舞弥、加えて了はテーブルの隅で声を潜めるようにして談話していた。話題は通夜前に見た謎の人物達で持ちきりだった。


「……ねえ、やっぱり昨日見たアレ、何かあの人たちと関係があるんじゃないかな」

「アレ?何のことだよ」

「ちょ、舞弥ちゃん」

「真紀那のノートパソコンに、色々な事件をまとめたファイルとかがあったんです。それに、真紀那が飛び降りる前にばら撒いたビラの原本も」

「ビラって言うとあの何か反政府派みたいな人達が言ってそうな奴のこと?……あれ真紀那ちゃんが書いたの?嘘だろ?」

「本当の話。証拠はちょっと今は手元にないけど……私達それ知ってなんか怖くて」

「やめときなよ舞弥ちゃん、あんま大きな声で言うもんじゃないって」

「えっ待って待って待って、ガチでヤバいやつじゃないのかそれ?えじゃあもしかしてあの人達も……?」

「だから!ほんと危険な茨の道進まないで。本当に。やめて」

「でもそうしないと……!真紀那がなんで死んだのか分からない。私はどうして真紀那が死のうとしたのか知りたい!」

 感情的に叫ぶ舞弥に圧倒され、男二人は何も言えなくなる。それを見て舞弥自身もはっと我に返った。

「……ごめんいきなり大声出して」

「……いや、誰も見てないし、大丈夫だと思うよ」

「……。話戻すけど、どうして真紀那が自殺を選んだか知るには、そういう所にも切り込んでいかないといけないと思うの。そうじゃないと何も分からない。お婆さんも言ってたでしょ、真紀那の痕跡を辿りって。……私達は真紀那が何のために何をしていたのかとか、誰と接点を持っていたのか、色々なことを洗い出さなきゃいけないのかもしれない。……私も怖い。すっごく怖い。でもね、乗り越えなきゃいけない。どんなに怖くても」

「舞弥ちゃん、そういうのはきっと警察がやってくれるから。今日もテレビで捜査してるって言って」

「でもあの内容のビラだよ!?多分何か分かっても見て見ぬふりされるだろうし、結局私達は何も知れないままになっちゃう。私それだけは絶対に避けたい……!」

「舞弥ちゃん……!」

「まあまあお前達が」

「大体真司さんあんなカッコつけといて何今そのへっぴり腰は!あの時のあれは何?キリッとしてこう、僕も真紀那ちゃんのことを知りたいって、あれは何だったの!!てか大体まず最初真司さん私のこと襲いかけたでしょ怖かったんだけど!?」

「うっっそだろお前そんなこと」

「いやだからっ……それは」

「たっ……大変です!!!!!」


 会場内に一際大きく響く男性の声。心臓が跳ね、誰もが彼を見た。

 黒い服に身を包む職員の彼。その顔は、見たことないくらいに青ざめて、何かを言おうとする声は言葉が出てこないほど震えていた。

 そうして吃り続けたが、遂に彼は顔を一層蒼白させ、大きな声で叫んだ。



「仏様のご遺体が……何者かに盗まれました……!!!」

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