暗号

 パソコンの画面は整頓が為されている。左側に数点、ドキュメントやらウェブサイトへのショートカットアイコンが羅列していて、背景は特にこれといった特徴のない汎用の風景写真だ。ただ一点、少ないショートカットアイコンの中に幾つか書類のようなものがむき出しで置かれていることだけが引っかかる。

「……え?」

 隣から真司の戸惑うような声が聞こえる。ふと見ると、彼はノートパソコンが出てきた引き出しから白銀色の小さな板を取り出していた。スマホだった。

「どうしてここにスマホが……?真紀那ちゃん、飛び降りた現場からスマホでSNS使ってたよね?」

「ああそれ、真紀那の前のスマホだ。高校上がった時に機種変したの。前のやつこんなとこにしまってたんだ……」

「……使えるかな」

 電源ボタンを押すと、スマホの画面が灯った。無論、パスワードを入れなければ操作はできないが。

「パスワード……」

「……そっちは流石に分かんないかな……」

「だよな……」

 とにかくこっちのほう調べてみよう、と舞弥はノートパソコンのタッチパッドに手をかけ、手始めにエクスプローラーを開く。真っ先に目に飛び込んできた真紀那の名を冠したファイルを覗くが、そこはもぬけの殻だった。他のファイルを覗くも、いずれもあのビラたちの内容とは関係がなさそうだ。しかし、最後に見たファイルだけは、何処か異様な雰囲気を放っていた。それの中には一から十一までの番号が振られたファイルが並んでいて、どれも一枚ずつドキュメント書類が入っている。

「……何だろうこれ。全部無題なんだけど」

「とりあえず見てみようか」

 まずは一番目のファイルから書類を開く。そこには、書類一枚にびっしりと――乱雑に文字列が並んでいた。文字化けにありがちな、解読不能の漢字ばかりの文字列が。

 それを見た真司と舞弥の顔は蒼くなった。

「何……これ?」

「大丈夫落ち着いて、他のも見てみよう」

 舞弥を励ましつつ、真司が固まってしまった彼女に代わってパソコンの操作を担う。冷静に、俊敏に次に次にとファイルを開けていく。一抹の不安を抱えつつもその手の動きに迷いはなかったが、その小さな不安は、彼の祈りとは裏腹に的中することとなる。十までのファイルの中にある書類、その全てが、最初見たような文字化けで埋め尽くされた書類だった。

「もしかして最後の書類も……?」

 妹の遺した不気味なドキュメントに、舞弥はすっかり怯えていた。力を込めた右手で真司の服の袖を掴むも、目を逸らすようなことはせずに、しっかり謎に立ち向かわんとする姿勢をとっている。彼女が真司へ仕草で「開いて」と伝えると、真司の細い指は、十一番のファイル、その中の書類へとカーソルを動かして、そして強くタッチパッドを押し込んだ。

 それは今までとは打って変わって真っ白だった。上部に中央寄せで、「平日→QAZ」とだけ書かれていて、それ以外は何もない。真司は尚更に困惑した。そこに書かれたものを、口の中でもごもごと復唱するが、それを解するまでには至らなかった。

「QAZ……QAZっていえば……これ……?」

 舞弥が眼下のキーボードに視線を落とす。一番左端に縦に並んだ、三文字のアルファベットを指でなぞる。「でも平日って……何のこと?……確かに今日は平日だけど」

「……」

 少し考えこんだのちに、真司はもう一度文字化けに埋まったドキュメントを凝視し始めた。突然の従兄の挙動に舞弥は驚愕を隠せず、突然真っ黒に染まった目の前も相まって声を上げた。

「真司さん!?何やってるの……?」

「こっちに何かヒントがあるのかと思って……大丈夫?気分悪くなったようだったら」

「あ、大丈夫……私も見てみる」

 ドキュメントで画面を真っ黒に染めつつ、二人はそれを凝視し、時に離れて俯瞰しつつ、真紀那が残した謎を解く。二人で合わせて二週読み終わった辺りで、真司が先にその異常に気が付いた。

「真司さん?何か気づいたの?」

「舞弥ちゃん、今見てるやつの何処かにひらがなが混じってたりしない?」

「ひらがな……?あっ」

 遠目で眺めてみると、確かにぎちぎちに詰まった紙面の中に、少し白いスペースがあるのが見える。そこにはひらがながたった一文字刻まれていた。

「ほんとだ……『ぬ』だって」

「それ、何枚目の書類?」

「えっと、九番目」

「他のも探してみよう。並べたら何かが出てくるはず」

 そうして全てのひらがなが盤上に並べられた。十枚の書類から一文字ずつ、見つけ出された計十文字の文字たちだった。

「『ん ら と に の ち て ち ぬ え』……」

「これの『平日』って、もしかしてひらがなのことだったのかな」

「……ああ、『平』仮名と『日』本語のこと?」

「多分。で、この文字たちは……QAZだから……そうか」

 舞弥はスマホを右手の方に置いた。左手で該当するキーを探し当てながら、併せて刻まれたアルファベットを記録していく。最後の文字を解いてスマホを手に取った彼女の表情は晴れやかだったが、記録されたその文字列の意味を理解したとき、そんな彼女の口角はすぐに下がってしまった。


「……『yosikawa15』」

「よしかわ?」


 人名。およそ、真紀那の周辺では聞いたことのなかったものだ。真紀那は生前、学校での出来事をよく話してくる少女だった。それ故に舞弥は勿論、真司も数人は彼女の友達やクラスメイトの名前を把握している。しかし双方に、『よしかわ』という姓を持つ人間は思い当たらない。互いの交友関係上にはこの文章が指す人物ではないだろう『よしかわ』さんが居るだろうが、それが真紀那の交友関係となると――

「……まあでも、覚えておく価値はありそう……。色々収まったら、改めて真紀那の卒業アルバムとか見てみようと思う」

 真司はその発言に頼もしさを感じつつ頷く。感じた頼もしさに、何故と違和感を抱きつつも次に何を声掛けるか迷っていると、舞弥が再び口を開いた。


「……真紀那、ほんとに何考えてたんだろ」

「えっ、……さあ、どうなんだろう」

「私、やっぱり知りたいよ。もう今更何したって遅いとは分かってる。でもやっぱり、真紀那がどうしてあんなビラを撒いたりこんな暗号みたいなの作ったりしたのかちゃんと知りたい。――間に合わないとは思うけど、あんなことした意味をちゃんと知ったうえで、見送ってあげたい」

「……舞弥ちゃん」

「真司さんも知りたいんでしょう?あの、だから……これからも協力してほしい。何があってもちゃんと受け入れよう。受け入れてそれで、真紀那のこと見送ろう。お願い」


 脳裏によぎる、少女の不穏な動き、主張。忘れることなく確かに記憶している。

 だからこそ、恐れる。だからこそ、まるで腫物を遠ざけるように触らないよう心掛ける。触らぬ神に祟りなし、と。そうして目の前にある案件から、知りたいと思いつつ逃げようとしていた自分を真司は自覚した。

 そんな彼へ舞弥の願い出は背中を押してくれる力強い腕となり、真司を鼓舞する。そうか、これか、と、真司は先刻感じた頼もしさの真意を悟った。そしてこれをいつか彼女が恐怖に襲われたときに、彼女自身を勇気づける言葉として返そう。それができるのは自分だけだと、奮い立たせる。


「うん。協力する。僕もそう思ってる。……よろしくね」

「……ありがとう」

 握った舞弥の拳は、少しだけ震えていた。

「――ところで」

「ん?」

「結局それ、何のための――」

 そこまで言いかけたところで、手元の白銀色の板を思い出した。電源を入れると、先刻も見た画面が映る。

 浮き出た『yosikawa15』をもう一度確認し、間違えることなくパスワード入力窓に打ち込んだ。

「――これで」

 固唾を呑み、エンターを押す。しかし、スマホはこの文字列を拒絶した。

「……え?」

「うそ、もしかして違う……?」

「あ、いや、待って」

 真司は『si』の部分に注目した。確かにキーボード上では、この打ち方でも問題ないが。もう一度、『h』を入れて打ち直す。

「……あっ」

 整頓されたホーム画面が開かれた。直後、カレンダーアプリへ誘導するバナーが差し込まれる。

 無意識に真司はそれをタップした。


『待っていました。お姉ちゃん』


 それは、長い眠りから目覚めた童話の姫君のような。既にこの世を去った彼女にとってはそうだろうが、今生きている人間にとっては禁忌の門を開いたような恐怖を与えるメッセージだった。


(……これは舞弥ちゃんには見せないでおこう。怖いよ真紀那ちゃん、本当に何でこんなことを)

「真司さん。開いたの?」

「開いたよ。えーっとじゃあ……繋げてみる?」

「繋げる」

 とどのつまり、パソコンからスマホの中身を探ってみようと。実際に繋げて調べることができたファイルにあったのは、またしても手がかりへの暗号だった。それが続き、翻弄されつつも、二人はようやく手がかりそのものが入っているだろうファイルへと辿り着いた。

 一度気を引き締め、息を吸う。タッチパッドを、力を抜いて軽く叩いた。


 目に飛び込んできた、小さなアイコンでも分かる真っ赤な太文字。人間が危険と一目で理解する色の羅列。

 SNSに挙げられた、死に際に真紀那が撒いたというビラそのもの達だった。


「……これ……原本……」

 真司はその中の一つを開く。小さく刻まれた主張の詳細まで全てあのビラと同じだった。

 あれを書いたのは紛れもない真紀那自身だと、現実が真司の頭を殴った。


「……こんなところにまだ圧縮ファイルが……」

 動けなくなった真司に代わり、今度は舞弥が魔境を歩く。解凍されたファイルの中には、幾つものスクラップやニュースの切り抜きが放り込まれていた。

 それを一つ一つ手に取って読む。どれもこれも、人の失踪事件や政界の不祥事を取り上げたものばかりだった。どれも知らないものばかりだ、恐らく、新聞のずっと小さな隅にしか取り上げられない、私たち大衆は知る由もないような事件だ。

 舞弥は益々真紀那が恐ろしくなった。いや、彼女は。何になろうと、私のたった一人の妹だ。そう暗示し、それでも拭えぬ恐怖を振り払おうと真司に縋る。ノートパソコンにはもはや手を付けられず右手で強く彼の袖を引っ張って名を呼んだ。


「……舞弥ちゃん」

 項垂れて降りた前髪で彼の表情は窺えず。ただ暗い緑の細縁の眼鏡からこちらを見る疲れ切った様子の黒目だけ、片方のみ見えた。

 そうして困ったように彼は笑い、そっと、だが音をばたんと立ててノートパソコンを閉じた。

「……あ」

「あんなこと言ってくれたのに、ごめん。流石にこれ以上はダメだと思う」

 これ以上踏み入ってはいけない。真紀那ちゃんが真紀那ちゃんじゃなくなってしまう、と。画面が点いたままの真紀那の旧いスマホをスワイプし、舞弥にも見えるように時刻を示した。

「そろそろ真紀那ちゃんも帰ってくる頃だと思う。一回、叔母さんたちに顔出してきなよ」

「あっ……」

 ノートパソコンとスマホを元の位置にしまい、舞弥肩を優しく叩いた真司は、先、下に降りてるねと告げて部屋を後にした。


 舞弥の心境は混じりに混じって混乱していた。ノートパソコンとスマホをもう一度机上に出すことも、彼の後を追って部屋から逃げることも、今の舞弥にはできなかった。

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