暗い食卓
校内を速足で歩き、真司は思考を巡らせた。
────「飛び降り女子高生」として世界に名を知らしめ死んでいった真紀那は、真司の従妹だった。
最後に会ったのは、正月に親戚で集まった時。控えめな少女で、姉の舞弥や親とも仲は良かった。当時高校生になったばかりで勉強が難しくなったと教えを乞うてきて、英語や数学を教えた記憶は今もまだ残っている。舞弥にくっついてなかなか話してくれなかった幼少期も、彼女が小学生の時に流行ったゲームを一緒にしたことも、確かに覚えている。全て彼女とのささやかな、それでいてきらきらと輝く穏やかな日々の記憶だ。
それだけに、何故死を選んだのか、彼女に何が起こっていたのか。疑問が思考を渦巻いて止まらなかった。この疑問が、妹同然に可愛がった少女の死による、狂いそうなほどの心痛を覆い隠すための衝動的なものだとは何となく分かっていた。
思考の速さに伴って速くなる足は、構内を出て雑踏を抜け、電車に揺られていても妙にざわついて忙しなかった。昼時で、電車に乗っている人は少ない。七人掛けの座席は誰も座っていないものばかりだった。鞄を子どものように抱えながら何も考えないように己を律し、顔を鞄に埋めて目的地を待った。その時に自分が昼食を取っていないことに気付いたが、だからと言って我が家で母の手料理を出されても、今は食べ物が喉を通る気がしなかった。
自分は「ただいま」を言えただろうか。声が出た気がしなかった。久しぶりの我が家に、こんな重い気を抱いて帰ることになろうなど、夢にも思っていなかった。
のろりと戸が開けっ放しのリビングを覗いた。吊るされたハンガーには男性用と女性用の黒い服が一着ずつ係っていた。それは喪服だと、否応なしに理解した。――男性用のは自分のだろう。父の分はまだ父の部屋のクローゼットだろうか。まるで夢を見るように、ぼうっと思案した。母を視界に認めた時、真司は今度こそはっきりと「ただいま」を告げた。
「突然呼び戻して悪いね。大学院はどう?」
「まあまあ、ぼちぼち。……休みの連絡は入れたから」
「そう。悪いけど父さんの部屋から喪服持ってきて。明日にはお兄さん家に行くだろうから……荷物それだけ?」
「院からそのまま帰ってきちゃった」
「いいの?向こう行ったら勉強してる暇とかないと思うけど?」
「……そうかな」
「んん……、まあいいや、ちょっとゆっくりして、取りに行きたいもん思いついたら取ってきな」
「分かった」
頼まれ物を済ませて、ソファに荷物と腰を下ろした。
テレビは誰も見ていないのにニュースが垂れ流し状態だった。そこではやはり、飛び降り女子高生───否、真紀那の件がトレンドのようで、母に訊けば、番組の頭からこの話題ばかりをしているのだという。真司の意識自体は、テレビの画面より少し上を捉えてぼんやりしていた。雑音としてしか耳に入らないはずのキャスターやタレントの言葉は、何故か鮮明に言葉として文章として頭に刻まれてきた。
────煩い。けれど、真紀那の最期の記録は、彼らしか健全な音声と映像にできない。勝手な解釈や考察で捻じ曲げて垂れ流すことしかできないくせに、とは思っても、だ。
ネット上では、未だに飛び降りの瞬間の映像が出回っているそうだ。そんなもの見たくないし、赤の他人に身内の最期なんて見せたくない。己は関係ないからと持て囃すのは勝手だが───いつの間にやらヒトは同族の死すらもエンタテインメントに出来てしまうような心理を持ったのか、こっちを邪魔しない範囲で何やかんや言っていてくれ、だとかそんなような諦観に似た感想を、世間に形にせず投げかけた。
脳裏には友人が彼女を面白がってちょっかいを出してきた先刻の情景が浮かぶが、だからと言って、彼に何と思うことなどなかった。去る時、彼はしおらしく申し訳なさそうにしていたし、学生生活に復帰した時にきっと彼の態度は何処か余所余所しくなるだろうが、真司はこれからも彼といつも通りのお付き合いをさせていただくつもりだし、彼女の死の瞬間を見世物を見るように見ていたからと言って問い詰めるようなことをするつもりもなかった。
人間とはそういうものなのだ。友人がそうだって、別に僕は何とも思わない。仕方ないとしか、と。
「真司。あんた大丈夫?目がどっかいってるよ」
「あ、ああ……」
「……まあ、気持ちは分かるけどね。その気持ちはお通夜まで一旦しまいな」
「……うん」
母と会話を交わして、真司はようやく一人で住む借り部屋に向かうことができた。
父は真司が事を知るより前に退社し、真紀那を喪った自分の兄一家の手伝いをする為に家を空けていた。午後七時頃、夕飯の準備ができたところで父は帰ってきた。思ったより早かった家族三人で食べる夕飯を、こんな重苦しい雰囲気で食うとは考えもしていなかった。
母にもあまり時間がなかったのだろう、素材からの手料理は少なく、自分もよく食べる冷凍食品が食卓の大半を占めていた。もはや食べ慣れた味を、真司は胃に押し込んだ。
会話は弾まなかった。誰も話題を提示せず、ただ目の前の食べ物を口に運んでいく。静寂を破ったのは、茶碗に少し白飯の塊を残して箸を置いた父だった。
「真司。大学院……どうなんだ」
「……院は大丈夫だよ、忌引きでこれから休むって伝えといたし、手続きとかは自分でやるから」
「そうじゃなくて。普段どうなんだって聞いてるんだ」
「あ、まぁ……真面目にやってるよ」
「そうか……」
そう言った父はそのまま目線を落とし、再び箸を持って白飯を口に運んだ。終わってしまった会話に真司が何か付け足して話を続けようと、言葉を頭で選んでいると、父は息子の顔を見ずに言った。
「いきなり連れ戻したりなんかしてすまんな」
「え?いや、別に……」
「……あの後、叔父さん達と一緒に遺体の確認に行ったよ。……あの子はやっぱり真紀那ちゃんだった」
「……っ」
改めて事実を受け止めた体は硬直し、普段力が入らないところへ力が入る。変な箸の持ち方をしている自分の手を見つめながら、真司はゆっくりと、自分の言葉を紡いだ。
「……真紀那ちゃんはどうして自殺なんてしたんだろう。しかもあんな風に、自分を見世物みたいになんかして……ずっと考えてたんだ、メール来てから」
「……まぁ、真紀那ちゃんのことは真紀那ちゃんにしか分からんさ。父さんたちがとやかく言ったって仕方ない……」
「……なんか話とか聞いてたりしたのかな、叔父さんたちは」
「聞いてみたぞ、手伝い行ったとき。なんも知らないんだと。昨日の夜も普段通りにしてたって」
「そっか……そうだよな、まぁ」
「……舞弥ちゃんがな、このことで塞ぎ込んでしまっててな。明日舞弥ちゃん家行くだろう。気休めにしかならんとは思うが、ちょっと相手してやってくれないか」
「そうするつもりだったよ。明日は何時に出るの」
「朝早くから真紀那ちゃんを署から連れて帰るから、八時には出るぞ。まあ家近いし、もうちょっと遅くてもいいと思うけどな、どうだ?」
「早めに行きたいな。舞弥ちゃんと話したい」
「そうか、じゃあ。そうしよう」
父は空になった茶碗や皿を重ねて、その上に箸を置いた。「あとでちょっと話をしよう。今回のこと、色々と伝えておくべきことがある」
食器を下げる父の背中へ、わかったと返して真司も箸を置いた。
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