泣いていたらしい

麻城すず

泣いていたらしい

 気休めだって分かってる。だけど黙っていられなかった。

 いつもよりも小さく見えたその背中を追うことが出来るのは、一番近くで応援していた私の特権だったから。

 屋外のテニスコートは、まだざわめきの中にある。そこからそっと抜け出して、私はうなだれ歩く先輩の後ろ姿に向かって駆け出していた。

 パタパタと暗い廊下に入った途端に響き出す、場違いなほど軽快な靴の音。

 先輩の足がとまる。

 私の足もとまる。

 動かないその背中に声を掛けようとして、けれども言葉が出なかった。動くことすら出来なくて。

 半分だけ向きを変えて壁におでこを押しつけた、その俯く人は私になんか気付いていないように一度だけ壁を叩く。ペシと鳴った音は少し情けなかったけれど、おかげでわたしは金縛りが解けたように足を再び動かすことが出来た。

 ゆっくり歩み寄る足下からはもうパタパタなんて賑やかな音はしない。

 その背中に近付いて顔を覗き込もうとした時、軽い衝撃に戸惑う間もなく私は先輩の胸の中にいて、耳元にその少し乱れた息遣いを聞く。

 黙っていられなくて追いかけたはずなのに、やっぱり言葉は出ないまま、ただされるがままに汗の匂いに包まれていた。

「負けちゃった」

 少しの間だったかもしれないし、或いは長い時間だったのかもしれない。

 いつの間にか規則正しく繰り返されるようになった呼吸とともに零れた言葉。

 放たれた言葉の重さ、私にだって分かっていた。見上げた先の苦しそうな笑顔の中、帯びた赤みが物語るのは。

 その手から落ちたラケットが、カランと乾いた音を立てた。

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泣いていたらしい 麻城すず @suzuasa

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