18 ライカの思い

 今日、入り江にはリューはいなかった。


 あの時リューが付けて行った砂の跡は波にさらわれ、まるでリューと出会う前の、まだアタシが独りでいた頃の静かな入り江だった。


 リューのいない入り江は寂しくて。さあっと波が砂をさらっていく音がいつもより寂しく響いているように感じた。


 アタシは全くキャンパスが進まなかった。アタシはリューのいない入り江の砂浜に横たわってリューを待っていた。


 あの時みたいにチャポン、なんて音を立ててきてくれないかなあ。


『ライちゃん!』なんていう、元気な声が木霊してくれないかな。


 そんな思いも虚しく。


 リューは今日来てくれなかった。


 アタシは、重い足取りで入り江を出ることにした。


 ………


「あらら、ライカちゃん。今日元気ないねえ。リューちゃんに出会う前みたく目が死んだサカナみたい。もしかして痴話ゲンカ?」


 アルレアネのドアを開けるとすぐに、店長がイヤミたっぷりに、ニマニマしながらアタシに言った。昨日掃除に来なかったからかな。魚に例えるのはやめてほしい。リューや蒼い世界の住人達が嫌いなわけじゃないが、『魚料理死んだ魚』は苦手である。


 痴話喧嘩と聞いてアタシの顔は熱くなる。アタシの変な想像の中だけど。


「…違うけど…。」


 アタシは顔を背けて言った。アタシの耳まで真っ赤になっている気がして、ヒヤヒヤする。思い過ごしかもしれないが。


「あらららら。まあいいけどさ。後悔しないようにしっかり謝っときなよ。」


 図星?という言葉を省略して、店長は言う。謝りたいけれど、アタシは泳げない。そんなアタシがもどかしくて、苛々する。


 もうほとんど終わったような恋をしている店長の言葉はアタシに響く。


 後悔しないように、か。


 ならば、今、目の前の人に。


「店長、昨日はごめん。昨日来れなくて…。」

「いいっていいって。おかげで休め…。じゃ、じゃあ今日も頑張ろう。」


 店長は休めて良かったと言いかけて、誤魔化し笑いをして、頑張ろうと言った。片付けが嫌いなのだろう。嫌いをこじらせて、アルレアネができたわけだ。


「うん。今日で終わらせるよ!」


 グイッと腕まくりをした。


 半袖の服を着ていたが。


 昨日休んだから、それを取り返すぐらいアタシは元気に言った。なんだか、謝罪の気持ちのない声で、リューに申し訳なくって、胸の奥がモヤモヤした。


「お、おー。」

 拳を天に突き上げた格好とは裏腹に店長はぺしゃっと潰れたような、ヘナヘナとした元気のない気合を入れた。


 ………


「はあ。」

 アルレアネって青色が多いな、なんて思いながらついた溜息は、意外にも大きかったようで。


「あら、やっぱりケンカ引きずってる?」


 アタシの大きな溜息を聞きつけて、道具の埃を払ったり、絵を飾ってある額縁を磨いたりしていた店長がニマッと笑って言った。興味津々に、薄茶色の瞳をキラキラさせている。


 さっきからずっと店長はそこしか磨いていない。床を掃いたりくらいでも…。いやむしろやって欲しい。店長がやったら色々と―、床を壊すくらいしそうだけれど。


 ケンカ、というかリューを傷付けたってことを引きずってる、というのはある。あの子は、アタシの大切な…。


「…まあ。リュー、もうアタシに会いたくないかもしれないけど。」


 絵の具を種類ごとに分けながら、うわの空で言った。まだ友達と言えると信じたいけれど…。あんな、突き飛ばすような酷いことしてしまったのだから。


「なんでそう思うの?」

 店長は雑巾を手にしてアタシの方にきた。


「だってアタシ、リューのこと大切なのに…。突き飛ばしちゃったから…。」


 アタシは俯きながら言った。今すぐにでも、リューに謝りたい。謝って、いつもみたいに笑って…。


「ふうん。何でまた?詳しく聞かせてよ。」


 ニカっと白い歯を見せて店長は言った。興味津々に店長は言ったが、彼がアタシのことを心配してくれていることはわかった。だけど、アタシは話す気になれない。


「やだよ。」

 アタシは冷たく言った。言いたくないような、アタシの変な想像、いや…。


 あれは、アタシの本当の気持ちなんかじゃあないはずだ。


 だって、リューはアタシの、友達で…。


「リューちゃんはさ、ライカちゃんにとって本当の―。本当の、『お友達』なの?」


 アタシの胸が苦しくなる。アタシとリューは『お友達』。友達なんだ。


「決まってるよ、お友達さ。大切な、ね。」


 アタシは言った。少し声が震えていて、ズクンとさっきよりも胸が苦しくなった。


 なぜだろう。


 この気持ちが、恋なんだとしたら。


 それは駄目だ。


 物語や小説や昔噺や御伽噺みたいに、美しいお姫様リューは、かっこいい王子様素敵な男性と結ばれるもんなんだ。それが、リューの、一番の幸せなはずなんだ。


 あの子は、女の子で、アタシも女だ。だから…。


 だからっ!


 恋なんてしていない、しちゃいけないんだ!アタシは…。


「ふうん。じゃあ尚更、謝んなきゃね。」


 店長はそんな複雑なアタシの気持ちを汲み取ってくれたのか、ただただ、この話題に飽きたのか。アタシには前者の方を強く感じたが、店長はそのことを深く訊いてくることはなかった。

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