6 蒼い世界へ

「ね、ライちゃん!早く早く!」


 リューはアタシの手を引っ張って、海に入って行く。嬉しそうに、彼女はパシャパシャとヒレで水をたてていた。やっぱり彼女の力は強くて、砂に足を取られて転びそうになった。

 

 胸あたりまでの深さまでの所にきたとき、不意に大きな波が押し寄せた。


 波がサプンと肩までを濡らす。


「ひっ。」


 やっぱり怖さは拭えていなくて、足がすくんでしまう。幸い顔のにかからなかっただけよかった。顔にかかったら、パニックになってしまったに違いない。


 リューから貰ったヤアコ貝の真珠を一粒飲み込んでいるから怖がらなくてもいい…ハズ。


 だけど、やっぱり怖かった。


 すうっと空気を大きく吸い、水面に顔を付けた。


 いつもはぼやけて見えないはずの、海底はくっきりと見え、くっきりと脚が見えた。アタシの恐怖心は小さくなっていた。


 ボコボコ…と空気を吐き出す。それとは逆に、リューに言われた通りに海水を吸い込む。


 水を吸うと痛いはずの鼻の奥は痛くなく、塩っぱくもなく。胸の中にすんなりと潮水が流れ込んできた。 


 全く苦しくなくて、ただただ青い世界が見えた。


 リューはにっこりしてアタシの手を引っ張って行く。顔をあげて空気を吸っても、苦しく無かった。


 人魚ってこんな不思議な感覚を体験しているのだろうか。


 突然足がつかなくなり、ゆっくりと落下するというような、浮遊感のような不思議な感覚がアタシを包み込んだ。


 不思議と恐怖はなく、髪に含まれた空気が出て行く音を耳の中で聴きながら、落下の感覚に身を任せる。


 リューが何か言っている。


 しかし水の中の生活に適応していない耳には聞き取れず、彼女がぱくぱくと口を動かしていることしかわからなかった。


 沈黙の、沈黙の蒼い世界だった。


「聞こえないよ。」


 アタシの声はアタシの耳にくぐもって聞こえた。リューに聞こえたのかわからない。


 リューは優雅に泳いでアタシのそばにきた。彼女はアタシの手を握って、顔をアタシの耳に近づけた。彼女の水の中の音を拾うのに適応した、ヒレ状の大きな耳の先の耳飾りがゆっくりと揺れていた。


 彼女の耳飾りは不思議な色を帯びていた。


「ライちゃん、もうちょっと深くに行くけれど、怖くない?」


 彼女の声ははっきりとまではいかないが、聞こえた。


「大丈夫。怖くない。だけど、泳げないから…。」


 不安は消え、期待が膨らんでくることがわかった。


 泳げない自分がもどかしい。ぱたぱたと足を動かしてみるが、全然進まない。


「安心して、ライちゃん。私が引っ張って行くから。」


 彼女は囁くと、アタシの手をしっかりと、強く握りなおして可憐な笑みを浮かべた。 


 彼女の軽くうねった明るい茶色の髪は、ゆらゆら揺れていた。


 アタシの左手を握って、彼女は深くに潜って行く。彼女は、その大きな尾びれでもっと速く泳げるはずなのに、アタシを気遣ってか、ゆっくりと潜って行く。


 視界が少し暗くなり―。


 そこには、幻想的な光景が広がっていた。


 リューは向き直って、

「ここだよ。」

 と囁いた。

 

 底に足をつけ、辺りを見回す。


 この海峡は温かい海になっているため、色鮮やかな熱帯魚達が青や赤や黄色い珊瑚、オレンジ色のイソギンチャクの間を行ったり来たりしている。


 辺りは青い光で満たされていた。水面てんじょうを見上げると、白い太陽光の細い筋が数多に重なって、まるでカーテンのようだった。


 洞窟の入り口は石畳と石段になっており、昔ここが何かの神殿になっていたかのようだ。石畳の合間には小さな珊瑚や海草、貝達が暮らしていた。


 リューが手招きをしている。


 歩き出すと、なんとも不思議な感覚だった。海底の石畳を軽く蹴ると大きく、そして遠くに一歩がでる。


 僅か三歩で石段を登りきってしまった。


「ね、ここから見てみて。」

 と手招きをするリューについて行く。


 洞窟の中には、リューが集めたであろう綺麗な色の貝殻や金貨、異国の硬貨コイン、宝石のような綺麗な石、真珠などがピカピカに磨かれ、そこ彼処かしこに散らばっていた。


 洞窟は横穴状になっていて、浅く、明るく、蒼い洞窟だった。


 一番奥から見た外の景色は―。


 とても、あのキャンパスの絵に、似ていた。


 嗚呼、これだ。


 アタシが描きたかったのは、これだ。


 一生をかけても、辿り着けなかったであろう、アタシの思い描いていた景色は、此処にあった。


 リューは何か言ったが、アタシには聞こえなかった。きっと彼女が耳元で言ってくれたとしても、静かな興奮に消されてしまって、何も聞こえなかったはずだ。


 ただ、昨日描こうと思ったものが―。


 人魚リューが、そこで微笑んでいた。


 リューに手を引かれ、周りを探検する。


 街の魚屋で売っていないような、葉っぱのような形の魚。


 鮮やかな熱帯魚達。


 大蛇に鳥の嘴を付けたような、大きな長い魚は、岩の隙間から獲物を狙っている。


 昔話で出てくる、ドラゴンのような顔をした魚は、とても小さくて、愛くるしかった。そいつらはアタシの指に尾を巻き付けてきたり、小さなヒレをちょこまかと動かして忙しなく泳ぎ回っている。


 たくさんの美しい、色とりどりの魚達や、海草や珊瑚、イソギンチャク、ウミウシ、蟹、貝達はアタシの、アタシ達人間の知らない海を教えてくれた。


 蒼い色に包まれて、温かな海は色とりどりの鮮やかな色だった。


 こんなに、沈黙しているのに。


 生命の音が聴こえないのに―。


 沈黙の蒼い世界とその住人達は、言の葉よりも多くのことを語ってくれた。


 すごい、と子供のようにはしゃぐアタシと同じように、リューも一緒にはしゃいでいた。


 珊瑚と海草の森を抜けると、遠くに村のような集落が見えた。


「リュー、あっちに村みたいなのがあるよ。」


 魚達に囲まれて笑っているリューに聞いてみた。リューに聞こえたのか聞こえなかったのか、アタシにはわからなかったが、リューはニッコリと微笑んで、アタシを見た。魚達はアタシを見ても逃げなかった。


 リューの蒼い、深い海のような色の瞳は、蒼い海の色を帯びて、より不思議な色に変わっていた。


「ライちゃん、帰ろ。」


 彼女は魚達と戯れながらアタシに言った。


 魚達に別れを告げ―と言っても、手を振るだけだったが、リューに身を任せ、海面に上がって行く。


すいすいと蒼い世界の住人達は泳ぎ、見送ってくれているようだった。

 沈黙の蒼い世界は、キラキラと輝いて見えた。

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