5 人魚の噂

 リューは、油絵セットを気に入ってくれたようで、波打ち際に仰向けに寝っ転がって、油絵ナイフを触ったり、筆の毛をつついたりしていた。


 何よりも、青色の絵の具をうっとりと見つめている。くるくると回したり、蓋をとって匂いを嗅ぎ、顔をしかめたりしていた。しかし彼女の瞳はキラキラとしている。気に入ってくれてよかった。アタシも青色好きだ。


 キレイだよね。


 特に海色が好きだ。


 不思議な青。荒々しい波の濁った青も、珊瑚礁のエメラルド色のような青色も、穏やかな波打ち際の青も、みんな海の色だ。店長は、その一つを見出したに過ぎないが。


 キャンパスに向き直り、鉛筆を持った。が、浮かばない。


 昨日まで鮮明に脳裏に浮かんできたのに。


 忘れてしまったみたいだ。


 鉛筆を置き、岩場に向かってみた。


 岩に手をかけて登る。キラキラと波に乗ってきたのであろう、塩の結晶が岩に付いている。


 入り江の、ホテプ海峡の海が削ったであろう、アーチ状になった大きな一枚岩の近くにある、突き出した岩に腰掛けた。


 このアーチが波を和らげるのかどうかは知らないが、穏やかな入り江とは打って変わって、ホテプ海峡の波は荒い。豊かな海産物を恵んではくれるが、漁師が一人前の波使い船乗りになるには、十年はかかるだろう。さらさらと淡く優しい波が、入り江を満たしていた。


 ああ、ここだ。


 アタシが、十二のとき、家を飛び出してここに来た。そのとき、ここから落ちたんだ。蒼い、不思議な力に引き込まれて…。


 溺れて―。


 そのあと、少しの間の記憶がない。


 なんで助かったのか。それすら、忘れてしまった。アタシが泳いで浜に着いたのか、はたまた誰かに助けられたのか。


 だけど、海で泳ぐことが、怖くなって。なんだか、また溺れてしまうんじゃないか、という恐ろしさが付き纏って離れない。


 だけど、アタシは海が好きだ。泳げなくたって、海の音が、色が、香りが好きだ。何か、アタシの心の中のもやもやを、優しくも荒々しい波で洗い流してくれる気がした。


 遠く霞む水平線を眺める。


 美しいなあ。


 キャンパスを捨てようとした時の、あの嫌な昏い気持ちは、もう無かった。


「ライちゃん?」


 リューが海からちょこんと頭を出してアタシを呼んだ。赤毛に近いくらい鮮やかで明るい茶色の髪の毛がとても目立つ。心配しているのか、控え目に呼んでくれた。


「ん?」

「何か悩んでる?」

「ううん。大丈夫。」


 水平線を眺めながら、リューの方を見ずに答えた。水平線を眺めていれば、昨日の何かを思い出せるかもしれなかった。


「良かった。ね、ライちゃん!」


 リューは微笑んで、手を伸ばした。ここにあげろ、ってことなのか?


 きっとリューを引き上げるのには、結構な力がいるはずだ。


 世話が焼けるな、と苦笑いをしてリューを岩場に引き上げようと掴んだ手と足に力をいれようとした。


 ドボン。


 え?


 彼女の華奢な体の、どこにそんな力があるのかと思えるほど強い力で、引っ張られ―。


 海に、落ちた。


 あの時の恐怖が、アタシを包み込む。


 苦しい、息が出来ない―。


 もがいても、もがいても、アタシの手は水を切るだけで。眼下に広がる蒼い世界が、大きな姿の見えぬ大きな怪物が、バックリと口を開け、アタシを飲み込もうとする錯覚に陥る。


 ガボガボと音を立てて口から、鼻から、空気が出て行くのがわかった。


 リューはそんなアタシを見つめていた。表情は、霞んでいてよく見えない。


 嗚呼、もうだめだ。


 目が霞む。


 ふわっとアタシの身体が持ち上がって―。


 この感じ、どこかで―。


 嗚呼、やっぱり人魚の噂は、本当だったのかもしれないな。


 ………


「…イ…!ライちゃん!ライちゃん!」


 ペチペチと頬を叩かれて、気が付いた。


入り江の波に反射した光が、ゆらゆらと岩に写っていた。


「良かった。死んじゃったのかと…。」


 上体を起こす。リューがアタシの傍らにいて、アタシを浜に引き上げてくれたらしい。


 大粒の涙を溜めて、彼女はアタシに飛びついた。


「ごめんね、ライちゃん。私、いきなり引っ張っちゃって。」

「…本当だよ。アタシ泳げないんだ。」


 引っ付くリューの柔らかな肌の感触が気恥ずかしくて、引き剥がしながら、怒気を孕んだ声で言った。口の中がしょっぱかった。目も塩っけが残っていてシパシパした。こっちは本当に死にかけたのだ。


「それで、なんでアタシを引っ張ったんだ?」


 髪の毛の砂粒を取りながら、リューに訊いた。


「だって、あの絵、似てたから。」


 リューは俯いて言う。


「入り江の洞窟に、似てたから。ライちゃんに、見て欲しかったの。ライちゃんが泳げないって事知らなかった。ごめんね。」


 蒼い瞳をアタシに向けて彼女は言った。


 どうやら、殺すために引きずり込んだのではないらしい。


「そうだったのか。でもさ、アタシは泳げないんだ。」


 頭を押さえ俯きながらアタシは言った。砂粒の付いた髪の毛はまだ湿っていた。


「そうだ、ライちゃん!」


 彼女の暗かった表情は、サッと明るくなった。


「ライちゃん、待ってて!すごいのがあるの!」


 そう言って彼女はいそいそと海へ戻った。


 ああ、頭がぐらぐらする。溺れたことを思い出すと…。


 怖かった。


 怖くて、苦しくて―。


 思わず、胸を押さえてしまう。息が上がって、肩で息をする。まるで全力疾走した後みたいに。


「ライちゃん?大丈夫?」


 リューはアタシの顔を覗き込んで、言った。ぽたぽたと雫が彼女の髪から滴っている。その姿はとてもあでやかだった。どきっとしてしまったことを彼女に悟られぬように、彼女に笑顔を向けた。


「これ。」


 彼女はアタシに何かを渡した。二粒の…。   


 なんだ、これ?


 真珠のような独特の輝きを放っているそれは、街の店で売っている真珠より青い輝きを持っており、いくらか歪な形だった。


「これ、なんだ?」


 その青が優し気な海のようで、さっきの恐怖が抜けなくて、大きく息をつきながらきいた。


「これね、お母さんがくれたヤアコ貝の真珠なんだ。飲み込んでみて!」

「ヤアコ貝…?」


 聞いたことのない貝の名だ。アタシは今度海産市に行ってみたら、訊いてみようかな、なんて思ったが、魚料理は苦手だった。


「うん。飲み込むと水の中でも息ができるんだよ。」


 リューは自慢気ににこっと笑い、アタシの掌の真珠を一粒取り上げ、自分の服の中に仕舞い込んだ。


「へえ。」


 掌の真珠を見つめながら言った。つまり、魔法の真珠ってことか。不思議な輝きを放つヤアコ貝の真珠は、魔法の真珠だ、と言われたら信じてしまいそうだ。


でも、本当にこれを飲み込むだけで息ができるのだろうか?


 疑いの目を彼女に向ける。


「海は、ライちゃん達の知らない事だらけだよ。陸上だって、海だって、私達の、ライちゃん達の知らない事だらけ。疑うのはしょうがないけれど…。私を信じて欲しいの。」


 真剣な眼差しで彼女は言う。


 そんな真剣な眼差しで見つめられたら―。


「わかったよ、リュー。アンタを信じるよ。」


 信じてやるしか、ないじゃないか。


 試してみても、いいかもしれない。


 何より。


 彼女のみている世界が見たくなった。

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