3 伝説

 リューに別れを告げ、入り江を出る。彼女はアタシが見えなくなるまで見送ってくれた。アタシはちょっと恥ずかしくて二、三回振り返っただけだったが、最後まで見送ってくれたことがわかった。


 砂浜を歩いている途中になって、リューに鱗を触らせてもらうお願いをするのを忘れてしまったことに気づいた。

 

 アトリエに帰る前に、画材屋「アルレアネ」に足を運ぶ。リューにあげるための油彩セットを手に入れる予定だ。使っていないやつはあるのだが、古びてて、その上汚れてる。油彩セットは高いけれど、あんな才能のかたまりのような子、ほっとけない。


 彼女の絵を見ると、ワクワクするんだ。もっと描いて欲しい。


 アルレアネに入る。ドアがキイィ、という軋んだ音を立てた。


 安心する香りがする。


 紙の匂いだ。アルレアネの店長がチラッとアタシを見て、にこっと笑ったあと、新聞に再び目を落とした。


 店の中はごちゃごちゃしているのだが、アタシくらいの常連になればどこにあるかなんて一発でわかる。


 あった、あった。


 リューって青が好きみたいだから、青色をたくさん買って行こう。


「これお願いしまーす。」


 会計のカウンターに油彩セットを置く。リューと話したことで、他人との話し方を思い出したみたいだ。


 店長は髭を撫でながら言う。


「ライカちゃんさー。ちょっとは仕事したら?死んじゃうよ?」

「アタシは絵に人生捧げるって誓ったんだ。それ以外の仕事なんて、するもんか。」


 そう、アタシは絵に人生捧げると誓った。絵のためなら死んだっていい。だって絵はアタシのすべてだから。金なんて二の次…。


「ふーん。絵に関係した仕事はするんだね?じゃあさ、この店の整理してくんない?いいや、むしろやってよ。これ古い型の油彩セットだからタダにしてやるよ。整理代も弾むよーにしておくからさ。」

「や、やる!」


 絵がすべてだって言っても、やっぱり腹が減っては戦はできぬ、だ。


 即答した。


 いろんな画材に触れることもできるし。何よりもこれがタダってこともあって。


「じゃ、明日の閉店間際に来てね。」

「わかった、店長ありがと!」


 礼を言って、アルレアネを出る。


 アルレアネにはほとんどこないが、店長とは仲が良い。変わり者同士ってヤツかもね。


 店長の名前は知らないが、昔は凄い人だったらしい。


 まあ過ぎたことはどっちでも良いんだけど。


 アタシがあの古い型の油彩セットを買ったのは、あれが一番使いやすいからだ。


 パレットはつるりとした素材でできており、綺麗にするのも簡単だし、油彩ナイフも小さめで使い易い。


 アトリエに帰ろうとすると、珍しく移動式見世物屋キャラバンがいた。空き地を借りて、テントを開いているようだ。


 大きな駱駝ラクダ驢馬ロバに積まれた荷物に、象の如く大きな馬が引く荷車には、見たことのないような獰猛そうな獣が檻の中ですやすやと眠っている。


 こんなふうに移動しているんだな、と感心しているとキャラバンの支配人のような人がビラをくれた。彼は背が高く、彼自身も異国の人のようだった。


「お兄さん、来てみてはいかがですか?面白い物がたくさんだ。」


 アタシ、お兄さんじゃないんだけどなあ。


「いつまでいるんだ?」


 ビラを見ながら、ぶっきらぼうにきく。ちょっと興味があるけれど、コンテストまであと少しだ。それの作品作りをしなければいけない。


「分かりませんね。お客が少なくなってきたら考えます。人間っていうのはすぐ飽きてしまう生き物なんでね。」


 そう言うと彼は不敵に嗤った。まるで自分は人間ではないと言っているようだった。


 街明かりに照らされて、彼はこの国にない、深緑の瞳を持っていること、そして干し草色の髪をしていることがわかった。


「まあ良いさ。アタシはこれに興味があるんでね。また来るかもしれないよ。」


 ペラペラっとビラを振り、支配人に言った。


「はい、お待ちしております。」


 彼は優し気な笑顔を浮かべていたはずなのに、外灯が不気味な笑顔に変えようとしていた。


 歩き出す。


 彼は最後までアタシが「お兄さん」じゃないって気付かなかったみたいだった。いや、気づいたけれど無視したのか。


 ビラを見てみると、さっきチラッとみたあの獰猛そうな獣や、三つ目の猫、それに翼を三つ持つ鳥などが描かれていた。


 中でもアタシを惹いたのは、「人魚の鱗」だった。まあ、紛い物に違いない。リュー達人魚が、そう簡単に鱗を渡すわけがない。だってリューはとても警戒心が強かったから。


 でも、もし鱗が本物だったら、どうやってキャラバンは手に入れたんだろうか。もしかして―。


 冷や汗が背筋を濡らす。嫌な想像が頭をぎる。


 まさかね。


 そんな非人道的なこと、するはずがない…とも言い切れないが、アタシはそんなことやってないって信じることにした。


 街の中心、噴水広場に差し掛かると、吟遊詩人うたびとが路上で詩を披露していた。


 丸い形をした弦楽器を鳴らし、メロディに合わせて歌っている。アタシは、ちょっと聴いていこうと思って足を止めた。


 すでに多くの人だかりができており、アタシは後ろの方で聴く。一曲目が終わり、人だかりもまばらになった。皆酒屋にでも行くのだろう。


 二曲目が始まる。


 タイトルは―。


 タイトルは、「人魚の伝説」だった。


 人魚、汝は海に棲む。

 美しき檻の中に囚われて、見えぬ鎖は外れずに。

 呪われた体は不老不死。

 其の美しき体には、不思議の力が宿りけり。

 鱗を煎じ飲んでみろ。さすれば不治の病は癒される。

 人魚の肉を食すなら、食す者に富もたらす。

 彼の生き血を飲むならば、寿命は幾千年と伸びるだろう。

 人魚の涙は真珠色。

 もし狙うならば気を付けろ。

 翡翠の柄の銀の剣を持っていけ。

 人魚を狙う勇ましき者よ、気をつけよ。


 緩やかな曲調のわりには恐ろしい歌だった。


 この歌によると人魚って不思議な力を持っているらしいけれど、リューはそんな風に見えなかった。


 リューのことを捕まえたり、そんなことをしようとは思わないが、まあどちらかと言えば、捕まる側だな、リューは。


 アタシはそんなことを思ってクスッと鼻で笑い、財布に手を突っ込んだ。持っていたのは、ルイ貨二枚しかなかった。


 持っていたルイ貨二枚を吟遊詩人の帽子に入れる。チリン、と軽やかな音が響いた。


 三曲目が始まったが、アタシはそこを後にした。

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