3 ふたり

 ピーン。

 来客を知らせる陽気な音が響く。「出てちょうだい」と言われ、重い腰を上げた。

「はーい、こんばん」

「すざくん!?」

「……ツグミ。どうしたの?」

「話したいことがあるの……ちょっといいかな」

 何だろう。少し頬が熱くなって、いつの間にかうなずいていた。

「ちょっと……外、行こう」

 真っ暗な夜道。壊れかけの街灯がチカチカして、ツグミの顔が現れたり、隠れたりする。

 だんだん、僕の家から離れるにつれて、ツグミの足取りは重くなる。僕も一緒に。五つ目の街灯のところで、自然とその足取りは止まった。

 ……もしかして、記憶をキレイにする前も、ツグミとこういう時間を過ごしたことがあったんだろうか。もしあったのなら、それを覚えていられないのは少し残念……ううん、悔しい。

 そうだ。この時間もいつか忘れて……生きていくために、なかったことにしなくちゃならないんだ。

「ねえ」

「ん?」

 僕の負の思考は、ツグミの声で脇に押しのけられる。

「すざくん……」

 言いにくいんだけどさ、って、声が聴こえてきそうな顔をして、ツグミはそのままうつむいてしまう。かがんで顔を覗き込むと、唇が震えていた。

「何? どうしたの、ツグミ」

「あ、あの、あのね……っ」

 困ったような目が、僕を捕まえる。

「すざくん、は、さ……」

 困ったことに、僕はツグミの目をまっすぐに見つめてしまっていた。

「……病気、本当に……治したい、って……思ってる……?」

「……え…」

 そんな質問が来るなんて、思ってなかった。

 答えようとして、少し迷う。そらせないままの目が、余計に僕を焦らせる。

 ……本当は? って。

「……うん、って、いいたい、けど……」

 口にする言葉全部が、生まれて初めて話したみたいだ。

「も、しかすると、治るの、諦めてるかも」

 そう言ってしまったら今度は、嘘みたいにすらすら言葉で溢れてくる。

「どうせもう治らないんだったら、覚えていたいこと、全部覚えていたいよ。消すたびに、自分の書いた馬鹿らしい付箋のメモとか、適当な日記帳見るたびに、信じられないし。それに。それに、もし……忘れちゃった、忘れたくなかった思い出が増えるのは……嫌だから……」

 僕のその付箋だの日記だのに、ツグミとの出来事はほとんど書かれていなかった。

 朝バス停に行く途中で会うのはきっと当たり前で、お互いの家におすそ分けしあったり、こうやって夜に尋ねてきたりするのは、きっと、普通に、僕とツグミの間で行われてきたことだったはずだ。ツグミは僕のために医者になろうとしているし、僕は一番目立つ付箋にツグミのことを書くぐらいには、ツグミのことが好きだ。

 それなのに、ツグミとの思い出が全く書かれていないのは。

 やっぱり僕だから、僕にはわかる気がする。

「僕は覚えてないけど、きっと、前の僕と今の僕は、違うんだよ、どっかが」

「……うん」

 目は少し赤らんでいるけど、ツグミはやっぱり笑顔が似合う。

 あー、これは、次の自分には教えたくないな。

 でももし前の僕が、こんなかわいいツグミを見たことがあったとしたら、それはそれでちょっと妬くなあ。

 だから僕は、日記には書かない。珍しく書いたときの僕はきっと、いつにもましてまともな僕だったんだろう。

「はぁー……なんだぁ」

「どうしたの? これ、大学の課題か何か?」

「ん、ううん、違うの。私、一人で空回りしてたんだなあって」

「……からまわり?」

「そう。一人だけで、ずっと、すざくんの病気治すぞーって思ってた。でも、すざくんの気持ちとは正反対」

「……僕は、ツグミが僕のために頑張ってくれてたの、嬉しかったけど……」

「そうじゃなくて! そうじゃなくてね。んー……あ、すざくん、何したい?」

「……何?」

「そ。楽しい思い出を作ろう。すざくんは……何のために生きたい?」

「なんのため……」

 まばらな星空を眺めて、少し、考え込む。

 何のために? 何のために、生きたいか?

 ツグミに視線を戻すと、今までにないくらい、優しい顔をしていた。

「そうだな……僕が忘れちゃった、いろんなところに行って、いろんな景色みたいかな……」

「じゃあ、それ……」

 声が震えていた。ツグミが泣いている。僕は、見たことあったっけ……?

「わ、私も! ……一緒に、行っていい……?」

「……なんで泣くの?」

「だって……っ」

「………大丈夫だよ」

「え……?」

「大丈夫だから」

 ツグミちゃんの涙を袖で拭って、帰ろうと手をひく。

 温かい手をひくと、その熱が伝わって、熱くなった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る