渡し船

アマネサク

私の行き先

 ふと気が付くと、私は見知らぬ男の人の前に立っていた。

 後ろを振り向き、あたりを見渡す。背後に広がっているのは深緑色の草原であった。私が歩いてきたであろう土がむき出しの一本道が、地平線の彼方まで草の大地の上に描かれている。ここは一体どこなのだろう。目の前の男性と同じように、この場所も私は知らない。


 再び男がいる方向に向き直る。この見知らぬ男の後ろには水面が広がっていた。背後の道と同じく水面は前にも左右に遠くまで続いている。最初は湖かと思ったが、無機質なせせらぎを奏でていることから、どうやら川のようだ。水は透き通っていはいるが生き物の影は見えない。とても不気味だ。


 私は川の前に立つ人物に目線を向ける。この男の人は一体誰なんだろう?

 その人は黒い和装着物を纏い、藁草履を素足で履いている。顔の下半分は白い包帯で覆われている。手には鉛筆と紙が挿んである灰色の板を持っている。何となく近寄りがたい風貌と雰囲気だ。

 男の黒い瞳が私を捉えている。心の奥底まで見透かされているようで、気持ちが悪い。


 視線に耐えられなくなり、後ろを見やる。先ほども見た暗い草原が広がるだけの景色。人の姿はどこにも見えない。

 本当にここはどこなんだろう。不安の波が押し寄せてくる。帰りたい。

 私は視線を黒服の男性に向ける。頼れるのはこの人しかいない。ここがどこなのか尋ねてみよう。


 口を開こうとした瞬間、黒服の男性が私の頭に、鉛筆を持ちながら手を乗せた。

「失礼」

 着物の男の落ち着いた声。

 この人は一体何をしているのだろう? 

「ふむ」男の手が頭から離れる。「よろしい」

 男は紙に何かを書き始めた。鉛筆の先が硬い心地の良い音を出しながら紙の上を走っている。

「改めて、ようこそお嬢さん」

 男の鉛筆を動かす手が止まり、口が開かれる。

 私はとりあえず会釈をしておく。


「ここは一体どこですか?」

 疑問を投げかけてみる。

「ここは向こう側とこちら側を別つ川の前です」そんなことは分かってるんだけれども。「この川は『三途の川』と呼ばれています」

 三途の川……アレ? なんだっけ? 思い出せないな。知っていたはずなのに。

 私は奇妙な物忘れに首をひねる。

「お嬢さんの一部の知識と、すべての思い出は取り除かせていただきましたのでご了承ください」

「え? 嘘……」

 まさか、そんなことできるはずない! 私は唐突な男性の告白に、驚きとその事実への反発を覚える。

「嘘ではありません」男は当り前であるかのようにそう言った。「なんでしたら、自分の名前や過去などを探ってみなさい」

 言われたとおり、目を閉じて自分の名前を思い浮かべる。

 浮かばない。名前が分からない! どうして?

 次は過去を頭に浮かべようとする。楽しかった思い出も悲しかった出来事もあるはずだ。

 しかし、名前と同じように何も浮かばない。何も思い出せない。こんなことって……。


「どうして……ですか?」

「これから行く場所には不必要なものだからです」

「どこに連れて行かれるのですか?」

「言えません」男の回答にも口調にも無性に腹が立つ。「まあ、あえて言うならば、魂の疲弊と精神の苦痛の世界、ですかね」

 疲弊と苦痛の世界。背筋から小さな氷塊が滑り落ちたかのような感覚に襲われた。恐怖で胸と首に強烈な冷たさを覚える。

 絶望や恐怖と共にドス黒い怒りが湧いてくる。

「わたしが何をしたというんですか」

 怒りと絶望、主に怒りで声が震える。

「残念ながら、あなたが何をしたのかは私には分かりません」

 着物の男が腕組みをする。


 不意に、聞いたことのない音が辺りに響く。プルルルル、という奇妙な音。

 その音は男から聞こえる。黒い着物の男が懐をいじり、黒く薄い直方体を取り出した。音源はどうやらその小さな薄い板らしい。

「失礼」

 男がそう言った後、黒い板を耳にあてた。何かをブツブツ喋り始める。

「はい……もういますよ」男の呟き。狂ったのだろうか。「ええ、一人です……また一人かって、驚くことでもないですよ、ここら一帯の他の場所もこんな感じですし……そちらの受け入れ状態が悪すぎるんですよ……そちらから来る数はすさまじいと聞きますし……はい……もう準備は万端です……はい……よろしくおねがいします」

 男が耳に当てていた板を懐にしまう。どうやら、男の呟きは私のことらしい。よく分からないけれど、あの黒い板に向かって何かを伝えていた。準備万端ってことは、つまり……。

「では」男が冷静な口調で言う。「向こうの準備もできたらしいので、向かいましょう。あちら側へ」

 男の人差し指が向こう岸を指さす。

 口を開こうとしたが、口が開かない。上唇と下唇が張り付いてしまってるようだ。

 開け! 開け! 

 心の中でそう叫び、指の腹で唇を無理やりこじ開けようとする。

 いくら開けと念じても、口は開かず言葉は発せられない。


「大丈夫です」全然大丈夫じゃない。「向こうへついたら口は開けられます。着いた瞬間に泣き叫ぶことになるでしょう。安心して下さい。まあ、こんなこと言っても、すぐに何も分からなくなりますが」

 何一つ安心できる要素がないことに、私は震えながら男の黒水晶のような瞳を見つめる。

 男はそう言い終わると、川の方を向いた。合掌しているらしい。

 白い霧がどこからともなく出始める。瞬く間に純白の霧が辺りを支配した。

「では、こちらにお乗りください」

 いつの間にか、川に小舟が浮いていた。もう色々と訳が分からない。

 逃げよう。妙な場所へいくよりかマシだ。

 しかし、足も手も全身が動かない。体の中から止められているようで気持ち悪い。

 体が勝手に小舟に乗ろうとする。


 やめて! 止まって! 無音の叫び声が、むなしく心の内で木霊する。

 後悔の念が一気に押し寄せてきた。どうしてもっと早くに逃げる決意をしなかったんだろう……。少し前の自分に説教をしてやりたい。

 ついに小舟に乗ってしまった。

 私が乗ったことで小船が軽く軋み、水面にいくつかの波紋が走る。そして意志とは関係なく、私の身体は腰を下ろす。自動的に両膝が間接で折り曲げられ、私の腕がそれを抱く。自分の膝小僧が視界の下側に入り込んでくる。

 木の小舟が何もしていないのに前に向かって動き出した。

「すぐに再会しないことを祈ります。健闘を祈ります」

 後ろから着物の男の声が投げかけられる。何に健闘すればいいの?

 小舟の速度が段々増してくる。おかしいな。すぐに向こう岸につくと思ったのに。

 それよりも、いつになったら体が自由になるんだろう。

 小舟は止まることなく霧の中、水の上を滑るように進んでいく。


 突如、全身に言いようのない痛みが襲いかかってきた。それと同時に暗転。何も見えなくなる。

「痛い痛い痛い痛い痛い!」

 叫び声を上げる。口が開くようになったらしい。

 鋭い刃で体中をかき回され、さらに傷口を業火で焼かれているみたいだ。痛さでもう何が何なのか分からなくなり始める。

 痛みに蹂躙されながら思う。

 これはきっと始まりなんだ。ずっと続いて、もっとつらくなるに違いない。

 芽生えかけた恐怖は、さらなる形容しがたい苦痛で霧散する。耐えられなくなり、手足をばたつかせる。

 喉が嗄れるほど泣き叫ぶ。涙と鼻水はとどまる事を忘れたかのように溢れ続け、私の顔を汚していく。

 突如として、すべての苦痛が止まった。まるで、今まで轟々と水を落としていた滝が、突然止まったかのような違和感を感じる。

 しかし口は泣き叫ぶ事ををやめない。

 ふと、私の叫び声の下で、とある声が確かにしっかりと耳に入り込んできた。

「元気な女の子が生まれましたよ。おめでとうございます!」

 私が……生まれた……? そうだったんだ。私は全てを理解した。あの川は……。

 すぐに私は何もわからなくなった。

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渡し船 アマネサク @amane_moon

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