Ⅴ
「う、ん……」
薄ぼんやりとした意識の中。最初に視界に入ったのは、小さなシャンデリアだった。
頭が鉛のように重い。ベッドに横たわっていることはわかったが、体から抜けきっていない異物のせいで頭の働きが鈍重になっている。
嗅いだことのない匂い。
その中に混じった彼の匂いに、ラナは慌てて飛び起きた。
「目が覚めた?」
「ルグ、レ……」
黒い髪を揺らし、青紫の瞳に静かな光を宿しながら、ゆっくりとルグレが近づいてくる。
凪いだ波のような、穏やかな声音。眼差しも、仕草も、何もかもが以前のままだった。
攫われて連れてこられた。眠らされて。それなのに、彼に対して恐怖感を抱くことはできなかった。
「ここは……?」
「おれの家だよ」
「家……?」
彼とは、ほとんどの時間を小屋で一緒に過ごしていた。時々いなくなることはあったが、まさかこんなにも立派な家があったなんて。
広い広い部屋。壁紙は至極シックなデザインで、小さな花の装飾が施されてある。ベッドのデザインや布団の柄、それから、ちょっとした小物を見るかぎり、ここは女性の部屋のようだ。
ただ一つ気になったのは、窓がないということ。外の世界を知らなかったころなら、あまり気にならなかったかもしれないが、今ではすごく息苦しい。
「あの、女の人は……?」
部屋を見渡す中で目に留まった、棚の上の写真立て。
息苦しい中で見つけた、少女とも女性ともとれる美しい人に、ラナの意識は吸い寄せられてしまった。
「ああ、あれはおれの妹だ」
「妹?」
「うん。……七年前に死んだ、ね」
「え……?」
彼と同じ色の髪と瞳。笑った顔も、よく似ている。
視線を少し横にずらせば、ハットスタンドに掛けられているフェルトハット——写真の中の彼女が被っているもの——を見つけた。
ラナは気づいてしまった。
ここは、亡くなった彼女の部屋なのだと。
「年は二つ離れてた。小さいころは、よくおれの後ろをついて回ってたよ」
懐かしそうに、悲しそうに、悔しそうに、彼が笑う。自嘲すら滲んでいるような、そんな笑みだった。
「……なんで、狼になるの? ルグレも、わたしと同じなの?」
疑問が止まらない。七年もともにいたはずなのに、こんなにも彼のことを知らない。
ラナのこの質問に、ルグレはポケットから先ほどの小瓶を取り出した。手首を捻るようにして振れば、中の液体が左右に揺蕩した。
「この薬のおかげだよ。ラナが狼になるのは満月の夜だけだろ? おれはこれを飲めば、いつでも狼になれる」
「薬? 薬で、狼になれるの?」
「うん。少しの間だけね」
ぞっとした。そんな薬があるのかと。
自分も狼になるのだから同じではないかと思いそうになったけれど、たぶん同じではない。同じにしてはいけない。
不気味な恐怖が、ラナの胸奥を侵食する。
そんな薬もう飲まないほうがいいよ——そう伝えようと、口を開きかけた。
そのとき。
「……っ、はっ……はっ……ごほっ」
「ルグレ……?」
突然、呼吸が乱れたルグレが、胸部を握るように押さえてうずくまった。
「ごほっ……はっ……ごほ、ごほっ……っ、ごほっ……かはっ!!」
そして、咽るように咳き込んだあと、激しく吐血したのである。
「ルグレ……!!」
「来るな!!」
急いで駆け寄ろうとベッドから飛び出たラナを、ルグレが大声で制した。
ラナの肩がびくっと飛び跳ねる。初めて聞いた彼の怒声に、足が竦んで動けなかった。
ルグレは、ゆっくりと起き上がると、よろめきながらドアまで進んだ。彼の軌跡を示すような鮮血の痕に、ラナは泣きそうになりながら見ていることしかできなかった。
「ここで、待ってて……もう少しの、辛抱、だから……」
苦しそうに、切なそうに、部屋をあとにする。直後、ガチャリという非情な音が室内に鳴り響いた。
「……っ、ふっ……っ」
こらえきれずに零れた涙が頬を伝う。
閉じ込められたことが悲しいのではない。ただ、何もできない、無力な自分に腹が立ってたまらなかった。
「……アルバ……ト……っ」
涙に咽ぶ声で絞り出したのは、優しい彼の名前だった。
◆
指にしゃらりと絡まる鎖。冷たい金属の感覚が、ずしりと重みを増す。
アルバートは、掌のそれをぐっと握り締めると、奥歯を噛み締め項垂れた。
ラナが行方不明となって丸一日。広場の周辺を隈なく探したが、いまだ彼女の発見には至っていない。
「……くそっ!!」
執務机を割れんばかりに殴りつける。
物に当たったところで解決などしない。まったくの愚行だ。けれど、どうしても自身に対する怒りを抑えることができなかった。ここで座っているのは部下たちに諌められた結果だが、この様では当然としか言いようがない。
握り締めた手をそっと開けば、星見時計の縁を光がなぞる。これを見つけたのは、広場の外の路地裏だった。
自分は言った。「待っていてほしい」と。簡単に言いつけを破るような子ではないので、路地裏まで行かねばならない何かがあったのだろう。
「失礼します」
と、ノックと同時に部下が入室してきた。小脇に多数の書類を抱え、アルバートのもとまで足早に近づく。
「ラナは見つかったのか?」
「いいえ。……ですが、行方不明が判明した直後から、王都への出入りはすべて監視していますので、外へ出た可能性はないかと。現在、警察と協力して捜索に当たっています」
「……それは?」
再び込み上げそうになる焦りをぐっとこらえ、顎でくいっと小脇を指し示す。すると、部下はその書類を机の上に広げ、よりいっそう険しい顔をした。
「例の自殺した支配人の自宅を特定し、捜索を実施したところ、
該当の書類を掴み、アルバートの前に差し出す。
手に取ったアルバートは、あまりの衝撃に固まり、しばし瞠目した。
「まだ捜索途中ですが、金銭の流れ等決定的な証拠は押さえてあります。早期に会社の捜索も開始したほうがよろしいかと」
アルバートの目に飛び込んできたのは、なんと昨日朝刊で見たばかりの綴り。
ジェニーと話したばかりの、あの〝アビシオン製薬〟だったのだ。
「小屋にいた
「実験により生み出された可能性が高いですね」
技術力はある。おそらく、それ相応の設備も。よって、この仮説が真だとしても不思議ではない。到底許容はできないが。
「でけぇ会社だから、従業員全員がすべてを知っているとは考えにくい。どこから漏れるかわかんねぇからな。その辺は上層部で上手く制限してるはずだ。……社長に子どもは?」
「イデアという名の息子が一人。現在二十九歳です。リリスという娘もいたようですが、七年前にわずか二十歳で死亡していますね」
「……その息子は、親父の会社で働いてんのか?」
「いいえ。父親の会社どころか、働いている形跡がありません」
「……」
見世物小屋。大手製薬会社。社長。黒い噂。息子。
バラバラに散らばっていたピースが集まり、アルバートの脳内でようやく一つになろうとしていた。そのピースの中には、もちろんラナもいる。
「行くぞ」
アルバートは、椅子から立ち上がると、部下の背中を押すように叩いた。
先を行くその広い背中に、部下が疑問を投げかける。
「行くって……会社に、ですか?」
「いや——自宅だ」
◆
どれくらいここに閉じ込められているのだろうか。窓がないせいで、外が明るいのか暗いのかさえわからない。
壁に掛けられた時計は止まっている。彼が買ってくれたあの時計があれば、時刻だけでもわかるのに。
「……」
どうすればいいのか。これからどうなるのか。なす術がないまま、ラナは部屋の隅で膝を抱えていた。ベッドも机も使う気になれない。物は溢れているのに、この部屋の匂いはとても寂しかった。
あの夜。アルバートと初めて出会った、あの夜。
檻の中でこんなふうに膝を抱えていた自分を、彼は助けてくれた。優しい顔で、声で、手を差し伸べてくれた。
「……アルバート……」
彼に会いたい。会って、あの大きな手で頭を撫でてほしい。
彼は、自分のことを探してくれるだろうか。見つけてくれるだろうか。もしかすると、言いつけを守らなかった自分のことなど、呆れて嫌いになってしまったかもしれない。
自業自得——そんなふうに罪悪感に苛まれていると、部屋の外で誰かの気配がした。
ルグレとは違う匂い。ラナは、思わず身構えた。
嫌な臭いが、近づいてくる。
「そんな隅で丸まらずとも、こちらへ出てくればいいだろう。それとも、こんなに広い部屋では落ち着かないか?」
威丈高に入ってきたのは、左目に眼帯をつけた初老の男だった。
地を這うような太い声。口角は上がっているが、笑っていないその表情に、ラナは得も言われぬ不気味さを覚えた。同時に、頭の芯がずきんと痛む。
男は、部屋の中央まで足を運ぶと、ラナを見下ろすようにソファへと腰掛けた。
「七年ぶりか。お前に直接会うのは」
男の言葉に、ラナの頭痛は激しさを増した。まるで頭に心臓があるかのごとく、痛みが脈打っている。
しだいに荒くなる呼吸。この男のことは知っている。アルバートと市場へ出かけた朝に新聞で見た。
……違う。それよりもずっと以前——七年前のあの満月の夜——ラナは、この男に大切な家族を奪われた。
「お前を見ていると、この左目が疼いて仕方ない」
母親を——
「お前の母親に潰された、この左目が」
——殺された。
「……っ、あっ、あぁあぁぁぁぁ……っ!!」
頭が割れそうなほどの痛みと、吐きそうなほどの嫌悪感に、ラナは頭を抱えて絶叫した。体の奥底で膨らむどす黒い感情に、今にも呑み込まれそうだ。
すべて思い出した。
七年前。突として現れたこの男に、ラナは連れ去られた。助けようとしてくれた母親は、男に爪で深手を負わせるも、銃で撃たれて死んだ。
目の前で起こった惨劇に、ショックのあまり気を失った。以来、自分で記憶に蓋をしてしまったのだ。
「イデアがどうしてもと言うので側に置いてやったが、あの薬が完成した時点でお前はもう用済みだ。お前のサンプルはすべて保存してあるからな。……次なる目的は、イデアをあの美しい姿のまま永遠に生き続けさせること。その研究費を調達するため、お前には大事な商品となってもらう」
男は、くつくつと笑いながら近づいてきた。まるで獲物を追い詰める獣のように、じりじりと。ラナが睨みつけるも、その不気味な笑みを崩すことなくにじり寄る。
「せいぜい
そうして、ぬっと腕を伸ばした。
次の瞬間。
ダァンッ——
蝶番が外れんばかりの勢いで、部屋のドアが蹴破られた。空気のうねりとともに、黒い制服に身を包んだ数名の男たちが続々と駆けこんでくる。
その中に、彼はいた。
「デセオ・アビシオン……だな」
濡羽色のロングコートを羽織り、一人だけゆっくりと歩を進める赤髪の男。長い前髪から静かに覗く灰色の瞳が、炯々とした光を放っている。
ラナの胸が、大きく震えた。
「これはこれは隊長殿。わざわざ
アルバートに向かい、男——デセオが口を開いた。皮肉めいた強気の語調ではあったが、内心はかなり焦っているようだった。
「!」
ラナの
デセオは、ラナの腕を掴んで自分の前へ引き寄せると、持っていた銃を突きつけ盾にしたのである。
「ったく、清々しいまでのクズだな。ここはもう包囲されてる。今頃会社も大騒ぎだ。どんな大層な野望をお持ちなのかは知らねぇが、テメェはもう終わりなんだよ。……その子を放せ」
ふつふつと沸き上がる怒りをかろうじて抑え込み、アルバートが言い放つ。アルバートの銃口は、的確にデセオを捉えていた。
「まだだ……まだ終わりにはせん。諦めてたまるか!!」
デセオの咆哮が、室内にびりびりと響く。明らかに不利な状況だが、彼の目はまだ死んではいなかった。歪んだ執念が、黒い右目の奥で燃えている。
皮膚を刺すほどに張りつめた空気。
「もう終わりにしましょう。お父さん」
その空気を静かに破ったのは、一度この部屋を去ったはずのルグレだった。
「イデア……?」
虚を衝かれたのだろうか。
イデアは、隊員たちの間をゆっくり前進すると、デセオと対峙するように立ち止まった。
「何をしている!? こいつらに捕まる前に早く逃げろっ!!」
「彼らをここへ案内したのはおれです。ラナの誘拐とその目的についても、すでに話をしています」
「なぜだ!? お前までわしを裏切るのかっ!?」
「……っ、リリスはあなたを裏切ったわけじゃない!! ただ自由になりたかっただけだ!! ……そのために死を選ばなければならなかったあの子の気持ちが、あなたにわかりますかっ!?」
悔しそうに顔を顰め、渾身の力を込めて怒りをぶつける。噛み締めた唇からは血が滲み、握り締めた拳はわなわなと震えていた。
忘れはしない。妹の亡骸の冷たさを。無力な己の涙の味を。
妹の写真に視線を向けたイデアは、一瞬だけ瞑目すると、何かを決意したように真っ直ぐ前を見据えた。
はっと、ラナは息を呑んだ。
イデアの青紫が、ラナの琥珀をじっと捉える。イデアの視線がふっと横に動いた。——目配せだ。
彼は、ラナに対し、アルバートのもとへ行けと言っている。
「ラナ、走れっ!!」
「ぐあっ!!」
イデアの声を合図に、ラナはデセオを突き飛ばし、アルバート目掛けて駆け出した。動揺したデセオが、ラナに銃口を向ける。
ラナがアルバートの懐に飛び込むやいなや、後方で乾いた筒音がした。ドサッと何かが倒れ込む。
振り向いたラナの目に映ったのは、仰向けに倒れたイデアの姿だった。
「……っ、ルグレーーっ!!」
悲鳴にも似たラナの叫声が、空気を劈いた。
イデアの腹部からどくどくと溢れ出す、真っ赤な血。
ラナが駆け出したその瞬間。両手を広げたイデアは、ラナを庇うようにデセオの前に立ちはだかった。
「ああ……イデ、あ……あぁ……っ、ぁぁぁあ゛あ゛あ゛ーーーーー!!」
半狂乱となったデセオが、再び銃を構えた。腕が、全身が、震えている。どこを狙っているのかわからない。けれど、その指が引き金を引くことは確実だった。
パァンッ——
高く轟いた二度目の銃声。
それとともに絨毯に沈んだのは、デセオだった。
アルバートの銃から上る白く濁った硝煙。うつ伏せに倒れたデセオの頭部から流れ出る鮮血。
デセオが引き金を引くすんでのところで、アルバートがデセオの眉間を撃ち抜いたのだ。
彼の野望は潰えた。
永遠に。
「ルグレ!! しっかりして!! ルグレ……っ!!」
駆け寄って膝をついたラナに、イデアが力なく手を持ち上げる。真っ赤に染まったその手を、ラナは両手でぎゅっと包み込んだ。心なしか、その手は冷たく感じられた。
「外で待機してる医療班を寄越せ!! 大至急だ!!」
部下に指示を飛ばしたアルバートは、近くのテーブルクロスを引き千切ると、それをイデアの腹部に押し当て止血を試みた。呼吸が荒い。白い布が、瞬く間に赤く染まっていく。
「……隊、長……」
「馬鹿野郎喋んじゃねぇ」
「……どう、して、も……あなた、に、言わ、なけれ、ば……なら、な、いこと……が……」
「あ? 動けるようになったら全部吐かせてやっから、今は喋——」
「あな、た、の……婚、約者、を……殺し、た、のは……おれ、です……」
「——!!」
呼吸もままならない、か細い声で告げられたのは、五年前の真実。事故として処理された、あの夜の真実だった。
アルバートの婚約者やジェニーの夫らを殺害したのは、薬で狼となった自分なのだと彼は言った。にわかには信じがたい。けれど、嘘を吐いているとは微塵も思えなかった。
「……あの、ころは、まだ……力、を……制御、でき、な、くて……本、当、に……申し、訳……っ……」
言い訳だと嘆きつつも、謝罪の言葉を繰り返す。彼は、まさに命を削りながら、懸命に言葉を音にしていた。
感情が追いつかない。思考も。だが、アルバートは、止血する手の力を緩めようとはしなかった。もはやそれは、イデア本人のための行為ではない。もちろん、自分のためでもない。……もう、時間がない。
「……ラ、ナ……」
イデアの瞳が、ラナを映す。優しい眼差しは、まるで夜明け前の星空のように煌めいていた。
「傷、つけて……ごめ、ん……でも、ラナ、の、前で、は……ほんと、の……自分、に、なれ、た……」
イデアの言葉に、ラナは喉を詰まらせた。
涙が止まらない。思い出が、気持ちが、ぐちゃぐちゃになって何も話すことができなかった。伝えたいことはたくさんあるのに。聞きたいことも、たくさん——。
「……あり、が、とう……おれ、の…たい、せつ、な……い、もう……っ……——」
ラナの両手の中で、イデアの手が力を失った。風が凪ぐように、波が引くように、すうっと呼吸が止まる。
宙を見つめた青紫の瞳には、もう何も映っていなかった。
「……ルグレ? ……や、いや……」
ラナの瞳から零れた大粒の真珠。イデアの目尻に落とされたそれは、光の筋となり、彼の頬を伝って流れ落ちた。
まるで、流れ星のように。
——血の繋がりはなくても、ラナはおれの大切な妹だよ。……ずっと。
「……ルグレ……っ、……ルグレェェェェーーーーっ!!!!」
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