「……っ、さむ」

 肌を撫でる冷気に、ぶるっと身を震わせる。

 眩しさに顔を顰め、重い瞼を持ち上げれば、そこにはラナの寝顔があった。

「……あのまま寝ちまったのか?」

 ぼやけた視界と頭で懸命に記憶を辿る。

 昨夜。アルバートは、眠るラナを抱きかかえて診療所へと戻った。

 二人の帰りを待っていたジェニーは、ラナの無事に嬉し涙を流すも、アルバートの腕の傷に一驚し、青ざめた。

 ラナを二階の自室まで運び、手当てを受けるために一階の診察室へ。幸いそれほど傷は深くなかったものの、全治二週間だと診断された。

 手当て後に交わした会話の中で、ここで一泊することを申し出た。緊張の糸がようやく緩んだジェニーを寝室まで送り届け、再度ラナの部屋へ。

 そのときはまだ、ラナは狼のままだった。頭を撫でても起きないくらいに熟睡していたので、とりあえずシーツを首元まで掛けてやった。

 そうしてしばらく寝顔を見つめていたのだが……それからの記憶が、まったくない。

 どうやら、彼女の隣で寝てしまったようだ。

「……目元、腫れてんな」

 人の姿に戻った彼女の目元はむくみ、頬には涙の痕が残っている。頬を掌でさすってやると、ほんの少しだけ顔を歪めて反応した。

「っと。やべ」

 起こしてしまうことを案じて咄嗟に手を引っ込めるも、

「ん?」

 あることに気がついた。

 シーツの下でちらりと覗く鎖骨に、彼女が今、一糸まとわぬ姿だということを認識したのである。

 ふと自身の足元に視線を向ければ、彼女が狼になる直前まで着ていたであろう服が無造作に折り重なっていた。

 アルバートは考えた。彼女が起きる前に部屋を出ようと。もちろん女性の裸を見ること自体初めてではないが、慮るべきは彼女の心情だ。

 ベッドを揺らさぬよう、物音を立てぬよう、ゆっくりと起き上がる。そうして、ノブに手を掛け、静かにドアを押し開けた。

「!」

「あら、おはよう」

 そこで、今まさにノックするために手を構えたジェニーに出くわした。抜群のタイミングだ。

「朝ご飯できたよ。ラナは? 起きた?」

「……いや、まだ……」

「寝てる? ……え? いやいや、起きてるじゃない。ラナ、朝ご飯食べ——」

 笑顔で一瞬固まるも、瞬間解凍されたジェニーの絶叫が、建物全体に轟いた。

「アルバート!! 早く出てっ!!」

「ってぇ!!」

 ドンッと勢いよくジェニーに突き飛ばされ、アルバートは廊下に倒れ込んだ。バタンッと容赦なく部屋のドアが閉められる。

「あんた、年頃の子になんてこと……!!」

「誤解だって!! 見てねぇし、やましい気持ちもいっさいねぇっ!!」

 ドア越しに飛んできたジェニーの勘違いに全力で反論する。

 恐ろしくて振り向けなかったが、ジェニーの言動から推察するに、ラナが起き上がっていたのだろう。たとえ信じてくれなくとも、偽りなど微塵もないのだから仕方がない。

 一人廊下で悶々としていると、部屋から二人が出てきた。なんとなく気まずい雰囲気が漂うも、それを打ち破ってくれたのはラナだった。

「アルバート!」

「うお!」

 両腕を伸ばして飛びついてきたラナを、しかと受け止める。柔らかな白金の髪が、ふわりと舞った。

「……体、大丈夫か?」

「わたしは、大丈夫。でも、アルバートが……」

「気にすんな。先生にちゃんと処置してもらったから」

「痛くない?」

「全然。……ほら、飯にしようぜ。昨夜ゆうべからなんも食ってねぇんだろ?」

 しゅんとするラナの頭に手を乗せ、朝食にするよう促す。アルバートの明るい声に感化されたのか、ラナはいつものように顔を綻ばせ、階段を降りていった。

「今回はあの笑顔に免じて……」

「だから誤解だっつってんだろ……」

 渦巻く疑惑と弁明。

 そんな大人二人の胸の内など知るよしもないラナは、無邪気に朝食を楽しんだ。ハムエッグが好物らしく、フォークで丁寧に口へと運び、至福の色を滲ませる。

 ラナと再びこうして食卓を囲めることが何よりの喜び。それを噛み締めるように、二人は揃って目を細めた。


「アルバート。新聞、読む?」

「ん? ああ、いつも悪ぃな」

 にこりと笑って、ラナは小走りで庭のポストへと向かった。

 朝は朝刊を、夕方は夕刊を。どちらの時間帯も、アルバートは新聞を読んでいる。仕事上どうしても不可欠なのだと知って以降、アルバートに新聞を届けるのがラナの役目となった。

「今朝はずいぶんゆっくりだな」

「ああ。昨日ここに来る前に休暇申請してきたからな。今日は休みだ」

 淹れたばかりの紅茶から、芳しい香りと湯気が立ちのぼる。

 昨夜、ジェニーから連絡が入った際、アルバートは念のために休暇を申請してきた。どの程度の問題が生じたのか想像できなかったゆえの判断だったが、間違ってはいなかったようだ。

「じゃあさ、今日はラナを市場まで連れて行ってやってくれないか?」

「市場?」

「うん。あの子、あまり外に出たことないらしくて。賑わってる場所を見たら、勉強になるかなって。ルグレって子にいろいろと教わってはいるみたいだけど……『百聞は一見如かず』ってね」

 診療所を空けられないジェニーの代わりに、ラナに社会見学をさせること。これに関してはアルバートも気に掛かっていたことなので、快く了承した。

「わかった。じゃあ、王立広場に行ってみるわ。今ちょうど、各地から珍しいもんが集まってっから」

「へー、楽しそう」

「新聞、取ってきたよ」

 話が纏まったところに、ラナが戻ってきた。

 纏まった内容を、ジェニーが告げる。

「ラナ。今日はアルバートが市場に連れてってくれるって」

「……ほんと?」

「ああ。たぶん普通の市場より規模もでかいから、まあまあ楽しめると思うぞ」

「あ、でも、保管庫の整理が……」

「いいよ、そんなの。今日はいっぱい楽しんでおいで」

 ジェニーの優渥な言葉に、ラナの両目が輝いた。喜びが内側で湧出している。出ていないはずの尻尾が、ぶんぶんと躍っているような錯覚さえ覚えるほどに。

 ありがとう、と謝意を伝えると同時に、ラナはアルバートに新聞を手渡した。

 ラナから新聞を受け取ったアルバートが、喜ぶ彼女を尻目にぱっと紙面を開いた。

 そのときだった。

「ラナ!!」

 突然、ラナが頭を抱え、その場にしゃがみ込んだのだ。

 アルバートは、開いたままの新聞をテーブルに投げ出し、沈む彼女の体を追いかけた。かすかに震える上半身を支え、固く目を瞑ったその顔色を窺う。

「どっか痛むのか?」

「……急に、頭が……でも、うん……大丈夫。治まってきた」

 アルバートに支えられながら、ラナはゆっくりと立ち上がった。若干鈍痛は残るが、大したことはない。

「ラナ、顔見せて」

 下瞼の裏側や首元のリンパ節など、簡易ではあるが、ジェニーによって診察が施された。目視するかぎり、異常はどこにも認められない。顔色が悪いわけでも、気分が悪いわけでもなさそうだ。

「ほんとに、大丈夫。無理してないよ」

「ラナの言葉は信じるよ。でも、もう少しちゃんと診たいから、部屋に行ってて。出かけるなら出かけるで、着替えもしなきゃだし。ね?」

「……うん」

 診断いかんでは、外出できなくなるかもしれない。そう案じたラナだったが、ジェニーの言いつけを守り、二階へと上がった。本当になんともないのだ。だから、自分の体と感覚を信用することにした。

「外に連れてったりして大丈夫か?」

「たぶん一時的なものだから心配はいらないと思う。……それに、キャンセルなんてしたら、それこそダメージ大きいよ」

「……そうだな」

 あの喜びようからして、アルバートと出かけることを相当楽しみにしているはずだ。それが中止になったとすれば、落ち込みようは想像に難くない。

「二階行くんだろ? ここは俺が片しとくから、あいつのこと頼む」

「ああ、わかった」

 そう申し出ると、アルバートは早速片づけに着手した。手始めに、さっきまで読んでいた朝刊を折り畳もうと手を伸ばす。再度目に入ってきた紙面には、とある広告が両開きで印刷されていた。

「……アビシオン製薬」

「うわー、聞きたくない名前」

 国内で一、二位を争う製薬会社。その名前を聞いたジェニーは、苦虫を噛み潰したような顔をして見せた。社長の肖像写真が載っている紙面から、わざとらしく目を背ける。

「この会社の薬、たしかここでも使ってたよな」

「前はね。今は使ってない。ラベルに記載されてる成分と、実際の含有成分が違うって噂を耳にしてから、全部処分することにした」

 医療関係者の間で、何かと黒い噂が絶えない会社らしい。誠実さを欠いた対応に苦しめられることもしばしばあるそうだ。

 こういった情報は、役人よりも同業者のほうが詳しいことを、アルバートは知っている。

「今ラナに保管庫の整理手伝ってもらってるのは、そのせいなんだ。真偽はわからないけど、そういった噂がある以上、患者に投与することはできないからね」

「ほかのとこも、同じような対応してんのか? すげぇ売り上げ落ちてそうだな」

「そこが不思議なんだよ。その広告料だって絶対安くないのに、しかも見開きだろ? いったい何で儲けてんだか」

「……」

 アビシオン製薬会社社長——デセオ・アビシオン、五十五歳。

 白髪交じりの黒髪。黒い右目。そして、黒い眼帯で隠された左目。

 大衆紙で堂々と不敵な笑みを湛えるこの男に、アルバートは、なぜか奇妙な違和感を覚えずにはいられなかった。


 ◆


「わ、あ……」

 広場の真ん中に落とされた、恍惚とした嘆息。

 思わず呼吸を忘れるほどに、ラナは強い感銘を受けた。

「すごいか?」

「すごい! すごいね、アルバート……!」

 棚や地面に並べられた、色彩豊かな商品の数々。生きのいい売り手の口上に、楽しそうに足を止める買い手。

 見聞きするものすべてが、ラナにとっては鮮烈だった。

「なんか欲しいもんあったら遠慮せずに言えよ」

「ううん。見てるだけで、すごく楽しい。連れてきてくれて、ありがとう」

 頬を薄桃色に染め、目をきらきらとさせるラナ。そんな彼女の姿に、アルバートは深い感慨に打たれた。

 彼女の体調を心配していないわけではないが、それでもここへ連れてきたことは正解だったと素直に思える。彼女の笑顔には、どうしたって敵わない。

 広場を歩くアルバートを、人々は「隊長さん」と呼び慕った。この隊長、意外と市民との関係はすこぶる良好なのだ。この市場のことも事前に把握しており、あこぎな商売はきちんと牽制している。

「ぼっちゃん」

 と、広場を半周したところで、懐かしい呼び声がアルバートの足を止めた。

 声の主は、初老の男性。頭にド派手なターバンを巻いた、糸目の雑貨商だった。

 彼の姿を見るやいなや、アルバートの顔つきは、よりいっそう柔和なものとなった。

「おいおい、三十半ばのおっさん捉まえてその呼び方はねーだろ」

「へっへっ。あっしからすりゃあ、ぼっちゃんは何十年経ってもぼっちゃんでさぁ」

「久しぶりだな。元気にしてたか?」

「ええ、おかげさんで」

 どうやら、二人は知り合いらしい。それも、かなり親しそうだ。

 きょとんとするラナに、アルバートが紹介する。

「この人は、俺の親父の商売仲間でな。外見は胡散臭ぇが、扱ってる商品はどれも一級品だ」

 彼は、貿易商を営むアルバートの父親と旧知の仲で、今でも交流があるらしい。半世紀近い付き合いゆえ、アルバートのことも生まれた時からよく知っているのだそう。

 ぺこりと頭を下げるラナに、雑貨商の彼はその糸目をくわっと見開いた。

「たまげた、こいつぁ別嬪だ!」

「!」

「おい、ビビらすなよ。……ラナ、せっかくだからここで買うか。どれが欲しい?」

 今まで会ったことのないタイプの人に、ラナは戸惑っているようだった。悪い人ではないということは匂いでわかるが、なんというか、距離感が掴みにくい。

 衝撃と遠慮が綯い交ぜとなり、感情が忙しい。が、アルバートの優しい声音に促され、先ほどからこっそり気になっている品を選ぶことにした。

「じゃあ……これ」

「星見時計か! この中でこいつを選ぶたぁお目が高ぇなお嬢ちゃん!」

「!」

「だからビビらすなって」

 ラナが選んだのは、掌サイズの懐中時計。外は金で覆われていて、中は文字盤の下に数え切れないほどの星が散りばめられている。特別に安くしてくれたが、おそらく高価な品なのだろう。「ほんとにいいの?」とアルバートに何度も確認したが、彼は快く支払ってくれた。

 個性的な雑貨商の彼と別れ、広場の隅に設けられた休憩スペースへ。

 ベンチに腰掛け、小さな星空をまじまじと見つめれば、胸の奥から嬉しさが込み上げてきた。

「星、好きなのか?」

「うん。……見世物にされてたときは、あまり見れなかったけど」

 小屋に囚われていたころ。

 支配人に内緒で、ルグレがこっそり見せてくれる星空が好きだった。はるか遠く離れているのに、手を伸ばせば届きそうなほど近く感じられる星々に、狂おしいほど焦がれた。……自由になりたいと。

 だから、夢みたいだ。

 今こうして、外を歩いているということが。

「海の上で見る星は、もっとすげーぞ」

「そうなの?」

「ああ。周りに明かりが全然ねーからな」

「そう、なんだ。……いつか、見てみたいな」

「……俺と一緒に来るか?」

「え……?」

 アルバートの真剣な眼差しが、真っ直ぐラナに注がれる。

 王都と故郷を結ぶ船の上。そこで見上げた星空を、アルバートは思い出していた。

 闇夜を照らす、さまざまな色をした無数の光。それらを見ていると、自分の小ささを思い知らされるような気がした。同じようなことを言っていたと夫婦の契りを交わしたのも、あの星空の下だった。

 他意があるわけではない。ただ、純粋に見せてやりたいと思ったのだ。果てしない世界を。

「あ、あの……わたし……」

 けれど、ラナには目的がある。ルグレと再会するという、彼女にとって最大の目的。

 再会した二人がどうなるのか。現段階ではわからないが、兄妹のような二人を引き離すことは、おそらく妥当ではない。

「悪ぃ、困らせたな。……喉渇いてねぇか? なんか飲み物買ってくっから、ここで待っててくれ」

 乾いた笑みを残し、アルバートはこの場を去った。

 その背中を見送り、言われたとおり、ラナはこのままここで待つことに。

「……」

 彼にあんな顔をさせたかったわけじゃない。本当は、一緒に行きたいという気持ちもある。けっして小さくはない気持ち。大きく育ってしまった気持ち。

 でも、どうすればいいのかわからないのだ。自分で道を選んだことなど、一度もない。

 ……情けない。

「!」

 不意に、自己嫌悪に陥っていたラナの鼻を、とある匂いがかすめた。

 初めての中を縫うように漂ってきた、懐かしい匂い。甘くて、温かくて、まるで夕日みたいなセピア色の匂い。

 間違いない。この匂いは——。

「ルグレ……?」

 居ても立っても居られず、ラナは匂いを追いかけた。雑踏の中を、かき分けるように進んでいく。アルバートの言いつけを破ったことに罪悪感を覚えるも、すぐに戻るからと自分に言い聞かせた。

 そうして。

「ルグレ!」

 広場の外、人気ひとけのない路地裏で、一人佇んでいる彼を見つけた。名前を呼ばれた彼が、ゆっくりと振り返る。

 漆黒の髪が小さく舞う。凛とした顔をより際立たせている青紫バイオレットの双眸が、暗く狭隘とした場所でゆらりと揺れた。

「今までどこにいたの? 心配、したんだよ」

 ラナが一歩近づけば、ルグレは二歩近づいてきた。みるみる縮まる二人の距離。

 その途中、彼は手に持っていた小瓶を傾け、中の液体を少量飲み込んだ。

「おれがいなくなっても、ずっとおれのことを信用してたなんて……ラナは本当にいい子だね」

 中性的な顔から発せられる、中性的な声。

 七年間、ずっと聞き続けてきた声。

「ルグ、レ……?」

 眼前に迫ったルグレに、ラナは頬をつっと撫でられた。

 ……ラナは感知した。彼の中に混ざった異様な臭い。恐怖すら覚えるほどの、禍々しい臭いだった。

 逃げなきゃ——直感でそう察し、一歩あとずさろうとしたが、腕を掴まれ引っ張られた。

「だめだよ。おれと一緒においで」

 耳元で囁かれ、全身がぞくりと粟立つ。直後、鼻と口を布で塞がれ、息ができなくなった。

 頭の芯が痺れる。足に力が入らない。

 その場に倒れ込んだ拍子に、落ちた星見時計が地面を滑っていった。精一杯手を伸ばすも、あと少し届かない。

 気を失う寸前。

 ラナの瞳が映じたのは、一匹の黒い狼だった。

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