——わしの可愛いイデア。その美しい姿をよく見せてくれ。

 ——……。

 ——ああ、いつ見ても美しい。苦労して〝血〟を手に入れた甲斐があった。

 ——……。

 ——お前は、わしの最高傑作だ。





 ◆ ◆ ◆





「あ? 自殺?」

「はい。破ったシーツを格子にくくりつけ、自ら首を……」

「……そうか」

 部下からの報告に、アルバートは深い溜息を吐いた。

 今朝早く、勾留していた例の支配人が、房の中で遺体で発見されたらしい。解剖待ちゆえ断定はできないが、現場の状況と検視官の所見から、自殺でほぼ間違いないだろうとのことだった。

 有罪になることを見越してか、はたまた背後の組織を恐れてか。真相は永遠に闇に葬られてしまったが、逮捕時のあの怯えようからすると、おそらく後者だろう。

「仮に刑期を全うして外に出たとして、一度捕まったやつを組織がそのまま放っておくとも思えねぇ。……一生逃げ続けるより、今楽になる道を選んだのかもな」

 椅子の背凭れに勢いよくドカッとのしかかる。

 ラナや動物たちに対する残酷な仕打ちを許すことはできない。しかし、彼もまた、その命を物のように扱われた一人なのだ。

 これで終わりではない。終わりになど、できはしない。

「小屋以外に、やつが生活していた場所は見つかりそうか?」

「はい。何箇所かリストアップし、現在一軒ずつ虱潰しらみつぶしに調べています」

「そうか。時間はかかるだろうか、引き続き慎重に捜査を進めてくれ。消えたルグレって青年のことも含めてな」

「……了解いたしました」

 アルバートの指示に、部下は頷く程度に一礼した。いつもと変わらない、執務室でのやりとり。

 だが、心なしか、部下の声音は沈んでいた。表情も翳っている。

「……どした? なんかあったのか?」

「あっ、いえ。そういうわけでは……」

「なんでも遠慮せずに言えって、いつも言ってんだろ」

 預けていた背を椅子から剥がし、両肘をついて部下の言を促す。

 アルバートの静かな、されど強い灰色の目に誘われ、部下は遠慮がちに口を開いた。不謹慎と承知ですが——そう、前置きして。

「隊長とご一緒できるのも今回が最後なのだと思うと、なんだか切なくなってしまって……申し訳ありません」

 伏し目がちに答え、寂しそうに笑う。

 この事件が終われば、アルバートは隊を去る。すべての隊員は、この事件を解決するために全力をあげているが、それはすなわち、退職へのカウントダウンをゼロに近づけているということなのだ。

 部下の気持ちが、アルバートの心奥にじわりと染み入る。

「俺がいなくなっても、ここは十分やっていける。就任した当初は〝隊長〟なんて柄じゃねぇと思ってたが、お前らのおかげでここまでやってこれた。……ほんと、ありがとな」

 を喪い、生きる気力さえ失くしていた折。

 部下たちがいなければ、この場所がなければ、自分はどうなっていたかわからない。彼らのおかげで、自分は今まで生きてこられたと言っても過言ではない。

 自分は生かされたのだ。彼らに。

「あと少し、よろしく頼む」

「……っ、はい!」

 アルバートがふっと笑ってこう言えば、部下は大きく頷いた。心服する上司の言葉に、決意を新たにしっかりと前を見据える。

 すっかり暗くなってしまった窓の外。

 東の空では、満月が顔を覗かせていた。


 ◆


 ジェニーから連絡が入ったのは、アルバートが帰宅する直前のことだった。

 平静さを失い、なかばパニック状態に陥った彼女から「すぐに診療所まで来てほしい」と告げられた。彼女がこれほどまでに取り乱したのは、アルバートが知り得るかぎり二度目。ダリスが亡くなって以来、二度目である。

「アルバート!! ラナが……ラナが……っ!!」

「ちょっ……落ち着けって!!」

 診療所に到着するやいなや、ジェニーは縋りつくようにアルバートに必死で訴えた。眼鏡にふりかかった金糸。その奥の碧色は潤み、今にも泣き出しそうだ。

 ラナの姿が見当たらない。いつもなら、鈴を転がすような声で出迎えてくれるのに。

「ほら、深呼吸」

 とりあえずジェニーを落ち着かせるため、アルバートは診察室の椅子に彼女を座らせた。蒼白していた顔面は徐々に精彩を取り戻し、乱れていた呼吸もなだらかになってきた。

「ゆっくり、順を追って説明してくれ。……ラナがどうした?」

 ただならぬ事態が生じているということは、アルバートとてわかっている。焦る気持ちはもちろんある。だからこそ、意識して冷静に振る舞った。

 一呼吸置いた後。ジェニーはアルバートに言われたとおり、ゆっくりと説明を始めた。

「今朝から、ラナの様子がおかしくて……そわそわしたり、妙に怯えたり……とにかく落ち着きがなかったんだ。少し熱もあったから、薬の整理も、今日は休ませた」

 近づけば距離をとられ、触れようとすれば顔を背けられた。食欲もないと言うので、ともに生活するようになって初めて、夕飯は一人で食べた。

「夕方からずっと部屋にこもったまま出てこなくて……そんなに体調悪いなら診察したほうがいいと思って、ラナの部屋に行ったんだ」

 だが、いくら外から呼びかけても、返事がない。

 心配になったジェニーは、心苦しく思いつつも、部屋のドアを開けることにした。

「そしたら——」

 明かりを消した部屋の片隅。窓から差し込む満月の光に浮かび上がったのは、なんと白金の狼だった。

 狼は、ジェニーの姿を見たとたん、怯えた様子で窓の外へと飛び出した。ベッドの上には、無造作に脱ぎ捨てられた彼女の服。それから、同じ色の長い髪の毛と短い獣毛。

 あれは、きっとラナだった。

「部屋に行ったりしなきゃよかった……。どうしよう……このままラナがどっか行っちゃったら……あたし——」

「心配すんな。ラナは俺が絶対見つける」

 ジェニーの言葉に被せるように、アルバートはしっかりとした口調でこう宥めた。その力強い眼差しが、彼女の精神を再建する。

 ようやく得心がいった。なぜ、ラナが見世物小屋にいたのか。

 アルバートは以前、父から聞いたことがあった。満月の夜にだけ狼へと変貌する、不思議な種族の話。

 世界中を飛び回り、物だけではなく様々な民話や神話なども仕入れてくる父親に、幼い頃はよく楽しませてもらっていた。ゆえに、その話もただの〝御伽噺〟だと思っていたのだが、妙に現実味を帯びていたことを思い出したのだ。

 ひょっとして、父は実際に会ったことがあったのだろうか。

 疑問の解消は退職後に持ち越すことにして、アルバートはラナの捜索を開始した。一緒に来ると言ったジェニーには、ラナが戻ってくるかもしれないからと診療所で待つよう依頼した。

 濃紺の夜空に冴え渡る、黄金色の満月。

 その明かりに照らし出された道を、息を切らしながらとにかく直走る。この付近で人目につかない場所はどこかと思案を巡らせば、保護区に指定されてある国有林が脳裡に浮かんだ。

 確証はない。が、いちかばちか、自分の勘を信じてみることに。

 すると、入り口付近の路傍で、それほど大きくはない獣の足跡を見つけた。

「まだ新しい……」

 もちろん、それが狼のものだとは限らない。狼は希少種だ。数もそれほど確認されていない。むしろ、狼よりも、野犬の可能性のほうが高いだろう。

 それでも。

「……迷ってる場合じゃねぇな」

 そう独り言ち、アルバートは林の中へと足を進めた。

 樹木の陰となる部分の土は湿気を含み、足跡がくっきりと残っている。月影だけでは見づらくなってきたため、持っていたカンテラに火をともした。なるべく音を立てないよう注意しながら、四本指の足跡を追いかける。

 どのくらい進んだだろうか。カツンと爪先に当たった小石が転がり、ポチャンと水の跳ねる音がした。眼前に現れたのは、一本の小さな沢。それを越えたところに、木々の間から漏れた月光が溜まる、少し開けた場所があった。

「……——」

 思わず、息を呑んだ。

 太い幹に寄り添うようにうずくまった、けっして大きくはない一匹の狼。光を集めた白金の獣毛は煌めき、しなやかな体躯はさながら芸術品のように美しかった。

 あまりの神々しさに足が竦む。けれど、どこか面影のある愛らしい顔に、アルバートは小さく名前を口にした。

「ラナ」

 ぴくっと、狼の耳が動いた。前足に乗せていた首をもたげ、琥珀色の双眸をアルバートに向ける。

 もう一度、今度は先ほどよりも大きな声で、はっきり呼びかけようとした。

「あっ、おい……!」

 しかし、狼はよろりと力なく起き上がると、そのまま林の奥へ走り去ってしまったのだ。

 慌ててアルバートが駆け出すも、相手は狼。そう簡単に追いつけるはずはない。

「使いたくねぇけど、見失うよかマシか……っ」

 心の中で舌打ちをすると、ヒップバッグからあるものを取り出した。

 それは、対獣用の捕獲網。

 本来は、街中に迷い込んだ獣を捕獲・保護するために用いるものである。捕獲される側の心情は推して知るべしだが、背に腹は代えられない。

 狙いを定めたアルバートは、前方に向かって思いきり網を放り投げた。

「キャンッ」

 狼の悲鳴が、辺りに響く。

 地面に崩れ、それでも網から逃れようと、必死にのたうち回る。その姿に胸が押し潰されそうになりながら、アルバートは急いで駆け寄った。

「悪ぃ、ラナ! 今外すから、じっとし……——っ!」

 解放しようと網を外した次の瞬間、アルバートの腕に鋭い痛みが走った。

 喉の奥に留まった呻き声。歪んだ顔で自身の腕を確認すれば、破れた制服の下から鮮血が滴り落ちていた。

 狼の動きが止まる。鋭く尖った爪には、アルバートの血液が付着していた。

 この場から逃げ出したくて必死に抵抗した。その結果、彼の腕を引っ掻き、傷つけてしまったのだ。

 おろおろと狼狽え、悲しそうに鼻を鳴らす。

「んだよ、心配してくれんのか? ……気にすんな。これくらい、お前が今まで受けてきた傷に比べたら大したことねぇ」

 そんな狼に、アルバートは優しく笑って告げた。

 このとき、確信した。目の前の狼は、間違いなくラナであると。

「大丈夫。お前のことは、俺が絶対守るから。……もう二度と、誰にも傷つけさせたりしない。どんな姿のお前も」

 ラナの首元に、そっと両腕を回す。包み込むように抱き締めてやれば、ラナは遠慮がちに体を預けてきた。

「一緒に帰ろう」

 琥珀色の瞳が、大きく揺れる。

 愁眉を開き、静かに閉ざされた白金の瞼から、一筋の光が滑り落ちた。

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