Ⅲ
——わしの可愛いイデア。その美しい姿をよく見せてくれ。
——……。
——ああ、いつ見ても美しい。苦労して〝血〟を手に入れた甲斐があった。
——……。
——お前は、わしの最高傑作だ。
◆ ◆ ◆
「あ? 自殺?」
「はい。破ったシーツを格子にくくりつけ、自ら首を……」
「……そうか」
部下からの報告に、アルバートは深い溜息を吐いた。
今朝早く、勾留していた例の支配人が、房の中で遺体で発見されたらしい。解剖待ちゆえ断定はできないが、現場の状況と検視官の所見から、自殺でほぼ間違いないだろうとのことだった。
有罪になることを見越してか、はたまた背後の組織を恐れてか。真相は永遠に闇に葬られてしまったが、逮捕時のあの怯えようからすると、おそらく後者だろう。
「仮に刑期を全うして外に出たとして、一度捕まったやつを組織がそのまま放っておくとも思えねぇ。……一生逃げ続けるより、今楽になる道を選んだのかもな」
椅子の背凭れに勢いよくドカッとのしかかる。
ラナや動物たちに対する残酷な仕打ちを許すことはできない。しかし、彼もまた、その命を物のように扱われた一人なのだ。
これで終わりではない。終わりになど、できはしない。
「小屋以外に、やつが生活していた場所は見つかりそうか?」
「はい。何箇所かリストアップし、現在一軒ずつ
「そうか。時間はかかるだろうか、引き続き慎重に捜査を進めてくれ。消えたルグレって青年のことも含めてな」
「……了解いたしました」
アルバートの指示に、部下は頷く程度に一礼した。いつもと変わらない、執務室でのやりとり。
だが、心なしか、部下の声音は沈んでいた。表情も翳っている。
「……どした? なんかあったのか?」
「あっ、いえ。そういうわけでは……」
「なんでも遠慮せずに言えって、いつも言ってんだろ」
預けていた背を椅子から剥がし、両肘をついて部下の言を促す。
アルバートの静かな、されど強い灰色の目に誘われ、部下は遠慮がちに口を開いた。不謹慎と承知ですが——そう、前置きして。
「隊長とご一緒できるのも今回が最後なのだと思うと、なんだか切なくなってしまって……申し訳ありません」
伏し目がちに答え、寂しそうに笑う。
この事件が終われば、アルバートは隊を去る。すべての隊員は、この事件を解決するために全力をあげているが、それはすなわち、退職へのカウントダウンをゼロに近づけているということなのだ。
部下の気持ちが、アルバートの心奥にじわりと染み入る。
「俺がいなくなっても、ここは十分やっていける。就任した当初は〝隊長〟なんて柄じゃねぇと思ってたが、お前らのおかげでここまでやってこれた。……ほんと、ありがとな」
彼女を喪い、生きる気力さえ失くしていた折。
部下たちがいなければ、この場所がなければ、自分はどうなっていたかわからない。彼らのおかげで、自分は今まで生きてこられたと言っても過言ではない。
自分は生かされたのだ。彼らに。
「あと少し、よろしく頼む」
「……っ、はい!」
アルバートがふっと笑ってこう言えば、部下は大きく頷いた。心服する上司の言葉に、決意を新たにしっかりと前を見据える。
すっかり暗くなってしまった窓の外。
東の空では、満月が顔を覗かせていた。
◆
ジェニーから連絡が入ったのは、アルバートが帰宅する直前のことだった。
平静さを失い、なかばパニック状態に陥った彼女から「すぐに診療所まで来てほしい」と告げられた。彼女がこれほどまでに取り乱したのは、アルバートが知り得るかぎり二度目。ダリスが亡くなって以来、二度目である。
「アルバート!! ラナが……ラナが……っ!!」
「ちょっ……落ち着けって!!」
診療所に到着するやいなや、ジェニーは縋りつくようにアルバートに必死で訴えた。眼鏡にふりかかった金糸。その奥の碧色は潤み、今にも泣き出しそうだ。
ラナの姿が見当たらない。いつもなら、鈴を転がすような声で出迎えてくれるのに。
「ほら、深呼吸」
とりあえずジェニーを落ち着かせるため、アルバートは診察室の椅子に彼女を座らせた。蒼白していた顔面は徐々に精彩を取り戻し、乱れていた呼吸もなだらかになってきた。
「ゆっくり、順を追って説明してくれ。……ラナがどうした?」
ただならぬ事態が生じているということは、アルバートとてわかっている。焦る気持ちはもちろんある。だからこそ、意識して冷静に振る舞った。
一呼吸置いた後。ジェニーはアルバートに言われたとおり、ゆっくりと説明を始めた。
「今朝から、ラナの様子がおかしくて……そわそわしたり、妙に怯えたり……とにかく落ち着きがなかったんだ。少し熱もあったから、薬の整理も、今日は休ませた」
近づけば距離をとられ、触れようとすれば顔を背けられた。食欲もないと言うので、ともに生活するようになって初めて、夕飯は一人で食べた。
「夕方からずっと部屋にこもったまま出てこなくて……そんなに体調悪いなら診察したほうがいいと思って、ラナの部屋に行ったんだ」
だが、いくら外から呼びかけても、返事がない。
心配になったジェニーは、心苦しく思いつつも、部屋のドアを開けることにした。
「そしたら——」
明かりを消した部屋の片隅。窓から差し込む満月の光に浮かび上がったのは、なんと白金の狼だった。
狼は、ジェニーの姿を見たとたん、怯えた様子で窓の外へと飛び出した。ベッドの上には、無造作に脱ぎ捨てられた彼女の服。それから、同じ色の長い髪の毛と短い獣毛。
あれは、きっとラナだった。
「部屋に行ったりしなきゃよかった……。どうしよう……このままラナがどっか行っちゃったら……あたし——」
「心配すんな。ラナは俺が絶対見つける」
ジェニーの言葉に被せるように、アルバートはしっかりとした口調でこう宥めた。その力強い眼差しが、彼女の精神を再建する。
ようやく得心がいった。なぜ、ラナが見世物小屋にいたのか。
アルバートは以前、父から聞いたことがあった。満月の夜にだけ狼へと変貌する、不思議な種族の話。
世界中を飛び回り、物だけではなく様々な民話や神話なども仕入れてくる父親に、幼い頃はよく楽しませてもらっていた。ゆえに、その話もただの〝御伽噺〟だと思っていたのだが、妙に現実味を帯びていたことを思い出したのだ。
ひょっとして、父は実際に会ったことがあったのだろうか。
疑問の解消は退職後に持ち越すことにして、アルバートはラナの捜索を開始した。一緒に来ると言ったジェニーには、ラナが戻ってくるかもしれないからと診療所で待つよう依頼した。
濃紺の夜空に冴え渡る、黄金色の満月。
その明かりに照らし出された道を、息を切らしながらとにかく直走る。この付近で人目につかない場所はどこかと思案を巡らせば、保護区に指定されてある国有林が脳裡に浮かんだ。
確証はない。が、いちかばちか、自分の勘を信じてみることに。
すると、入り口付近の路傍で、それほど大きくはない獣の足跡を見つけた。
「まだ新しい……」
もちろん、それが狼のものだとは限らない。狼は希少種だ。数もそれほど確認されていない。むしろ、狼よりも、野犬の可能性のほうが高いだろう。
それでも。
「……迷ってる場合じゃねぇな」
そう独り言ち、アルバートは林の中へと足を進めた。
樹木の陰となる部分の土は湿気を含み、足跡がくっきりと残っている。月影だけでは見づらくなってきたため、持っていたカンテラに火をともした。なるべく音を立てないよう注意しながら、四本指の足跡を追いかける。
どのくらい進んだだろうか。カツンと爪先に当たった小石が転がり、ポチャンと水の跳ねる音がした。眼前に現れたのは、一本の小さな沢。それを越えたところに、木々の間から漏れた月光が溜まる、少し開けた場所があった。
「……——」
思わず、息を呑んだ。
太い幹に寄り添うようにうずくまった、けっして大きくはない一匹の狼。光を集めた白金の獣毛は煌めき、しなやかな体躯はさながら芸術品のように美しかった。
あまりの神々しさに足が竦む。けれど、どこか面影のある愛らしい顔に、アルバートは小さく名前を口にした。
「ラナ」
ぴくっと、狼の耳が動いた。前足に乗せていた首をもたげ、琥珀色の双眸をアルバートに向ける。
もう一度、今度は先ほどよりも大きな声で、はっきり呼びかけようとした。
「あっ、おい……!」
しかし、狼はよろりと力なく起き上がると、そのまま林の奥へ走り去ってしまったのだ。
慌ててアルバートが駆け出すも、相手は狼。そう簡単に追いつけるはずはない。
「使いたくねぇけど、見失うよかマシか……っ」
心の中で舌打ちをすると、ヒップバッグからあるものを取り出した。
それは、対獣用の捕獲網。
本来は、街中に迷い込んだ獣を捕獲・保護するために用いるものである。捕獲される側の心情は推して知るべしだが、背に腹は代えられない。
狙いを定めたアルバートは、前方に向かって思いきり網を放り投げた。
「キャンッ」
狼の悲鳴が、辺りに響く。
地面に崩れ、それでも網から逃れようと、必死にのたうち回る。その姿に胸が押し潰されそうになりながら、アルバートは急いで駆け寄った。
「悪ぃ、ラナ! 今外すから、じっとし……——っ!」
解放しようと網を外した次の瞬間、アルバートの腕に鋭い痛みが走った。
喉の奥に留まった呻き声。歪んだ顔で自身の腕を確認すれば、破れた制服の下から鮮血が滴り落ちていた。
狼の動きが止まる。鋭く尖った爪には、アルバートの血液が付着していた。
この場から逃げ出したくて必死に抵抗した。その結果、彼の腕を引っ掻き、傷つけてしまったのだ。
おろおろと狼狽え、悲しそうに鼻を鳴らす。
「んだよ、心配してくれんのか? ……気にすんな。これくらい、お前が今まで受けてきた傷に比べたら大したことねぇ」
そんな狼に、アルバートは優しく笑って告げた。
このとき、確信した。目の前の狼は、間違いなくラナであると。
「大丈夫。お前のことは、俺が絶対守るから。……もう二度と、誰にも傷つけさせたりしない。どんな姿のお前も」
ラナの首元に、そっと両腕を回す。包み込むように抱き締めてやれば、ラナは遠慮がちに体を預けてきた。
「一緒に帰ろう」
琥珀色の瞳が、大きく揺れる。
愁眉を開き、静かに閉ざされた白金の瞼から、一筋の光が滑り落ちた。
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